ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
注意:今回は内容ついて核心にせまる言及はしていませんが純粋に楽しみたい方には読まない事をお勧めいたします。
前に、山田尚子監督作『リズと青い鳥』を自分は「静謐な作品だった」と述べたが、ある一点で覚めてしまって純粋には楽しめなかった。と書いた。
その上で本作を観たのだけども、今回はそれを踏まえて色々と修正しないといけないと考えたので、それをやってみることにする。
まず、本作は物語・ドラマの視点で語れば、そこにカタルシスは無いところだ。
物語、早い話シナリオでは展開の妙で人を感動へと導くが、それにはある程度のロジックが必要になるが、本作にはそれが希薄なのだ。
ぶっちゃけリアリティが無い。
そのあたりのツッコミどころはいくらでもあるが、一つだけ挙げておくと、保護者の承諾なく高校中退なぞ出来ません。退学?何ですかソレ。
ただ、それが弱点にはなってはいない。
カタルシスは色と音楽で昇華する。
これが本作。
作為として設けられた設定が、主人公は他人を色で見る事ができるが自分の色を見る事はできない。なので、クライマックスが自身の色を見るのは必然なのだけれども、鑑賞後はどうもピンと来なかった。
だけども、深夜にふと閃いた。
嗚呼、あれはサイケだ!
サイケことサイケデリックはヒッピー文化に端を発したもので、早い話がLSDとかの幻覚剤でラリった頭の感覚を音楽とか美術などの芸術で具現化する。そんなモノ。
つまり、本作のアヤツは四六時中ラリっている。
とはいえ、完全にサイケデリックというわけではない。その根拠にサイケデリックアートは原色が主だが、主人公が見るのは水彩画ような原色薄めの風景なので、そのものでは無い。
そこから少し連想すると……
幻覚剤で感じる浮遊感。
↓
主人公が見る色。
↓
青春時代にあるどっちつかずな感覚。
これらが融合されて、従来のサイケデリックとはチョット違う、いわば、ふるゆわサイケ。と言うべきものが爆誕している。
つまり、山田作品はセルゲイ・パラジャーノフ、アンドレイ・ホドロスキー系譜のサイケデリックな魅力を持ったムービーに位置づけされる。
『リズと青い鳥』もそうだったが、まだ物語のロジックに縛られていたからそう感じただけで、ソコから離れてしまえは本質としてサイケデリックムービーになる。事実、ソレから離れた本作はそうなっている。
だけども、あくまでも系譜であってそのものでは無い。なぜなら、ふるゆわ…だから。
それを今回は確信したのであった。
劇場で鑑賞。
監督:山田尚子
脚本:吉田玲子
キャラクターデザイン原案:ダイスケリチャード
キャラクターデザイン・作画監督:小島崇史
音楽・音楽監督:牛尾憲輔