えいざつき ~映画と世情と日常と~

何かの感想というよりも、それで思い出した事を書きます。映画、SFが多めです。そして、たまに妄想が暴走します。

<『GODZILLA』>ハリウッドは核と放射能をどう描いてきたか<便乗>

注:ここでは原爆と水爆の二つをまとめて核。核放射性物質放射線の二つをまとめて放射能と表記します。また、科学的と軍事的な視点については論じません。

GODZILLA』DVD& Blu-ray発売に便乗したものを書きます。


アメリカ版『GODZILLA』が大勢の日本人にどうして受け入れがたいのかをハリウッドは核と放射能をどう描いてきたかをざっくりと書きながら。ざっくりとし過ぎる考察をしてみる。


〇1950年代から70年代前半まで。
キーワードは「復讐」「滅亡」

1950年代からのアメリカとソ連(現、ロシア)の水爆実験によって、これが現実に使用されたらどのような“結果”をなるかを想像できる環境になっての二作で、まず「復讐」から。

「復讐」
従 来の爆弾とは違う水爆の威力で“未知の何か”を呼び起こしてし社会に害を及ぼすのではないのか?と、いう不安が起こるのはイメージできるし、それが映画で はビジネスチャンスであることも想像できる。“未知の何か”が襲来して自然を蔑ろにした社会に「復讐」する。『原子怪獣現る』はその先駆けであり代表的な 作品である。それと同年の『放射能X』(1953)は低予算映画のロジャー・コーマン、バート・I・ゴードン監督に影響を与えた。不安が“市場”を開拓したともいえる。
原子怪獣現わる( The Beast from 20,000 Fathoms) [DVD]原子怪獣現わる (1953)
放射能X [DVD]放射能X(1954)



「滅亡」
その強大な威力から核での戦争は特定の社会を破壊するのではなく総てを破壊するではないかとういう疑問が、つまり「滅亡」するのではないのか?という不安が映画『渚にて』は表れている。
そ して、この作品が新しかったのは水爆の威力ではなく放射能による「滅亡」を描いていること だ。しかし、ここでの放射能は現実的な描写ではなく、化学兵器の延長として描かれてはいるという違いはある。そしてこれは後の放射能の表現としてデフォルトに なる
渚にて [DVD]渚にて (1959)

ちなみに原作の『渚にて』は小説『復活の日』(1964)映画は映画版の『復活の日』(1980)に影響を受けているというのは興味深い。

その後に起きるキューバ危機は上記の想像のウソがリアルに成りかねない事を大衆に決定的に印象づけ、「滅亡」は後の『博士の異常な愛情』(1964)『未知への飛行』(1964)などは社会派として認められ、「復讐」はイカモノとして認められゆく。


〇1970年代後半から1990年代
キーワードは「陰謀」「兵器」

「陰謀」
社会派であることには間違いはない『チャイナ・シンドローム』はすぐ直後に実際におこったスリーマイル島原子力発電所事故により、あまりにもタイムリーだっ たために作品の内容そのものよりも“現象”として記憶されている。メルトダウンも×××シンドロームもここから始まった。一般人には理解されないものが理解している(だろう)者達に隠されていて、それが起きたら止められないのではないのか?という「陰謀」がハッキリと見えるように感じたと。言ってもよいの かもしれない。その後の原発電事故について回る“もの”として印象づけられた。『シルクウッド』もその雰囲気によって現れた作品だ。

シルクウッド [DVD]シルクウッド (1983)

「兵器」
一方のイカモノはこの手の作品の宿命で一言でいうなら“あきられた”だろう。それに『スターウォーズ』 (1977)の登場でイカモノにも不安よりも陽性な楽しみ方が求められるようになってから予算もかけられるようになり、低予算の作品は減ってはいったが、 そのすき間をぬいくぐって『ターミーネーター』が現われた。続編である2と3で人類を滅ぼす方法として後の支配者のコンピューター使うのは人 類自身がもっている核兵器という設定はデタント(緊張緩和)をへてアメリカとソ連(現、ロシア)という二大核保有国の和解が「滅亡」の回避になったときに それまで相手を倒すために利用しようとしていた「兵器」が”どのように”なってゆくのかを指摘していた。そして核はSFというファンタジーからアクション というファンタジーへと消費されてゆく。このとき核という「兵器」はサスペンスの道具になり一言でいえば“爆発は一つ、人がいなければ大丈夫”の設定がデ フォルトになる。爆発の威力だけが強調されたのは『ターミネーター』を監督した同じ人の『トゥルー・ライズ』ここでは放射能の影響は入ってはいない。もっとも、すぐにそれがデフォルトになった訳ではなくて、『ブロークン・アロー』や『インディペンデンス・デイ』では放射能の影響を感じさせる描写されてはいる。いるが、それも重要なものではなく、やがて2000年代ではそのような描写は観られなくなった。


そこで、『GODZILLA』だが、核と放射能を“批判”として描いているのか?

といえば、描いてはいる。それは核兵器保有数NO.1のアメリカが核という力をもっても倒せない相手としてだ。そして、放射能も人間を殺すものとして冒頭のシーンで描写して、その放射能を食べる生物として描くことによって人間よりも上位の存在として定義させている。 つまり、アメリカよりも強大な存在が今回の『GODZILLA』である。

それではどうして『GODZILLA』に不満を抱く日本人がいるのかといえば。
 
日本にとって核と放射能は怨念だからだ。

 怨念は感じないものからみれば、どうしてそんなに執着するのかが理解できない。そうゆうものだからである。

アメリカでは自らをつくった核が自らを滅ぼしかねない、まさしくプロメテウスの火として認めているが、日本人にはそれが自らが犯した罪で、それが逃れられない悪い業、怨念ではないのかと感じているからだ。

そして今回の『GODZILLA』は明らかにプロメテウスの火の方向で作品をつくっている。

だからこそプロメテウスの火とどうやって付き合ってゆくのか(コントロールする)を考える人々がいるのに対して、逃れられない怨念(逃れる方法が無い)をどのように避ける(鎮撫する)のかを考える人々の差が『GODZILLA』の評には表れているように思える。

それでは原点である『ゴジラ』はどうやって表現の難しい怨念をどう描いたのか?

と、いうわけで便乗はまだつづきます。

[参照&広告リンク]
原子怪獣現わる( The Beast from 20,000 Fathoms) [DVD]
放射能X [DVD]
渚にて [DVD]
チャイナ・シンドローム [Blu-ray]
シルクウッド [DVD]
ターミネーター2 特別編 [Blu-ray]
トゥルーライズ [DVD]
ブロークン・アロー [Blu-ray]
インデペンデンス・デイ [Blu-ray]



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