ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][誤字修正有]
目が点!『エイリアン コヴェナント』の感想はこれにつきる。確かに見所らしいのはあるのだが、それが一部のファンにしか通用しなので、いわゆるブロックバスターを楽しみたい人には不向きな映画だ。これアニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』と同じタイプだ。大衆向けというよりはインテリ向けだ。せめて『LOGAN ローガン』みたいにきれいにエンタメに落としこんでいればこんな感想も沸かないのだけれども……
これから、この映画について批判の方向で書くが、その際にヒントになったのが脚本で参加しているジョン・ローガンが演劇として書いた台本がレオポルドとローブの事件を題材にしていること。少なくともあのキスの意味がこれで分かる。
それと次の記事。人によってはグロテスクしか感じられないので。注意が必要。
stevenspielberg.hatenablog.com
この記事の内容と同監督作品『ハンニバル』を思い出してもらえば、この監督の「美」がどこを向いているのかが簡単に想像できる。なにしろ、このシリーズの最大の功績者であるH・R・ギーガーのデザインをスタジオに強く推したのはこの監督だから。
ここではそれを踏まえて自分がこの映画に感じた不満を書いてみたいと思います。
こちらもお願いします。
ここから先はネタバレになります。観ていない方にはおススメできません。
早い話、この映画の本質は反キリストです。このイメージに満ちています。
上手いのはこの映画では直接ではキリストの批判はしていない。間接に表現することで、混乱を避けているところだ。
前作『プロメテウス』で生き残ったアンドロイドのデヴィッドが『コヴェナント』で演奏し、映画のラストを締めるのはワーグナー作曲『ラインの黄金 ヴァルハラ城への神々の入城』だが、それに出てくるローゲは北欧神話のロキのドイツ語の呼び名だ。ロキは人々に不穏な考えを植え付けるトリックスターの役割をもっていてキリスト教における悪魔(サタン)の影響を与えたといわれている。反キリストだ。
次に映画でデヴィッドがウォルターにキスをするが、これは前述したレオポルドとローブが同性愛者でありニーチェの超人思想の信奉者でもあった。そのイメージからとっている。これも反キリストだ。
そして、冒頭にキリストの降臨の絵画を見せておいてラスト前にコヴェナント号の乗務員の集合写真を最後の晩餐のように撮って映画で見せる。あえて順番が逆を承知でやっている。逆十字架と同じ構造だ。やっぱり反キリストだ。
とどめは映画で、つまりスコット監督が創造主、つまり神をどうみているかが示される。人類の創造主たるエンジニアの星を全滅させ冒頭で出たダビデ像とは対照的なエイリアンの姿に「美」を感じ、、愛していたエリザベス・シュウ博士にエイリアンを植え付けたデヴィッド。実質には人間つまり彼を創った神と同等になった彼の存在の「本当の姿」はシェリーの詩をバイロンの詩と思って呟いているそれをウォルターが間違いとして指摘するところから分かる。「一音狂えば、すべてが狂う」と。今や神になったともいってよいデヴィッドは狂っていたのだ。
つまり、神とは狂った存在である。と主張している。これが反キリストでなくてなんなのか。
もっとも、その主張は『プロメテウス』にもあったし『エクソダス 神と王』にもうっすらとだがあった。リドニー・スコット監督はキリスト教の奇跡とか恩寵を一切信じていない。今作ではそれが先鋭化されて主張されている。
問題はその主張が先鋭化されすぎてエンタメとして感情移入の幅が極端に狭くなっている。特に面白いアイディアもないし、それに簡単にいうと、その他の人物がエンタメ視点でいえば、ただウドの大木になっているところだ。
ここで感情移入ができそうなのはデヴィッドとウォルターぐらい……ってできるか!!