ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][加筆修正有]
映画『散歩する侵略者』予告編 【HD】2017年9月9日(土)公開
熱心な黒沢清監督のファンではないので断言は避けるが『散歩する侵略者』の観易さは監督の作品歴でも上位に入るのでは?第一印象はそんな感じだ。
そして、映画では侵略者が人間に成りすまして日常に溶け込んでいるのだが、成りすまし侵略モノの魅力「静かに犯されてゆく日常」の魅力と『散歩する侵略者』はちょっと違う。 -- 確かに影の使い方などにドン・シーゲル監督『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』の影響があるけども、それは今や黒沢監督のスタイルといってもよいものだ。 -- 今作はどちらかといえばこの宇宙人は探査体(プロープ)に近い。または侵略のための偵察といったところか。早い話テレビドラマ『新スタートレック 』の敵役だったボーグだ。「個は全体。全体は個」を連想させる意味でだ。彼等は肉体の「概念」が無い。
それが何となく分かるのは。冒頭の惨劇が、中盤で救出される恒松祐里が演じる立花あきらから聞かされるところだ。それが存在しないからこその興味であり、惨劇だ。
そして、イメージした概念を(結果として)盗む宇宙人のあるパターン演出から、この一見ユーモラスで最後がウエットなSF映画が実は監督がもつドス黒さもちゃんと表現している。やはりこれは黒沢清監督作品なのだ。
ここでは、そのパターン演出に着目して自分がこの映画に感じたドス黒さを書いてみたいと思います。
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ここから先はネタバレになります。観ていない方にはおススメできません。
ひとことでいうと光です。そして涙です。
宇宙人たちはイメージした概念を盗み出すときには必ず光が入ります!そして盗みだされた相手は涙を流します。
それは概念を盗み出した終了の合図でもある。それが分かるのはクライマックスで笹野高史が演じる品川が高杉真宙が演じる天野から概念を盗まれるときにハッキリと描写される。距離があるのにもかかわらずに品川は概念を盗まれた。その時にも天野には光が入り品川は涙を流す。そうして品川は概念を取られた。
それでは、同じくクライマックスで長澤まさみが演じる加瀬鳴海が夫で宇宙人である松田龍平が演じる加瀬真治から愛の概念を盗られたときはどうだったか?実は光っていない。そして涙も流していない。
これはどうゆうことなのか?簡単にいうと永遠に終わらない無限の概念を宇宙人は盗み出したということだ。愛は論理がなくて矛盾で無限な概念なのだ。怖ろしいことに!
これがサポートとして描かれるのは真治が出会う東出昌大が演じる牧師から「愛とは何か」を聞かされるときに分かる。愛を語っていながら、どうみたって理解してそうは見えないサイコパスな表情は東出昌大の最高の演技もあって愛が一筋縄ではいかない概念だということが観ている人に示される。
ところがクライマックスで鳴海は無限の概念である愛をイメージできてしまう。それは宇宙人になる前の真治が若い娘と浮気をしているのを知っていながらも宇宙人になった真治の世話を悪態をつきながらも何やかやで世話をしてしまう矛盾だらけで論理がないが結局は真治を愛している彼女だからこそできたイメージであり概念だ。それを宇宙人は盗み出して無限の概念を処理しきれずに最終的には侵略をあきらめた。愛は人類を救った!別の意味で!
侵略をあきらめた宇宙人は撤退して人類は救われた。宇宙人に概念を盗まれた人たちもやがては元にもどるだろう。鳴海を除いて
なぜなら宇宙人は鳴海から愛を盗みきれていないから。光もないし涙も流していないから。彼女は永遠にそのままだ。
これがこの映画のドス黒さであり、黒沢清監督のまったくぶれないドス黒さだ。