ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
当時の人気職業であった活動弁士を夢見るニセ活動弁士で泥棒の染谷俊太郎は、親分が捕まったことから悪事から解放されて、小さな町の閑古鳥の鳴く映画館・靑木館。隣町にライバル映画館がある場所に流れ着いた。人材もそのライバルに取られ、残ったのはクセの強い人ばかり。そこで雑用ばかりを任される毎日を送る俊太郎の前に、幼なじみの初恋相手、大金を取り戻そうとする泥棒の親分、俊太郎を追う警察などが現れさまざまな騒動に巻き込まれていく。
周防正行監督
注意:できる限り内容への言及は避けますが、抵触しそうな可能性もあるので、純粋にこの映画を楽しみたい方には、ご遠慮くださるようお願いします。
まず最初にことわっておくと自分は弁士(活動弁士)についてはまったく知らない。
そんな自分でも弁士はサイレント映画の花形だったことは知っているので、ドラマを作るなら、自分もやっぱり『雨に唄えば』や『アーティスト』のようにトーキー(発声)映画登場を中心にして展開を組み上げてゆくのを考えるのだが、この映画は違った。ラストに「無声映画史上の傑作」とか「当時、剣戟ブームを起こした」とかの前置きがついて回る1925年の『雄呂血』をもってきた。
『雄呂血』の見せ場はやっぱりクライマックスの大立ち回りで、自分もそこだけ何度も観直したこともあるくらい迫力を感じていたし、物語もひとりの男が純粋さゆえに転落してゆく様を描いていて、評価の「悲壮美の極致」も納得できる。なにより芝居が歌舞伎の延長のような様式ぽいのではなくて自然に見える。
だから、ここでの『雄呂血』とは日本映画史でいうところの、それまでの西洋舞台の様式から映画技法の基礎を作ってそれを解放して「映画を芸術にした」と言われている1915年と1916年の『國民の創生』や『イントレランス』と同じ位置。つまり「日本映画を芸術にした」が定説だし、そしてやっぱり周防監督もそう考えているらしい。そうでなければ『雄呂血』をもってくるはずはない。そこから、この映画の伝えたいことが、弁士をとおしての日本映画前史、つまり夜明け前をやりたかったことが見えてくる。同じくイタリア職人の兄弟をとおして映画前史を描いたタヴィアーニ兄弟の『グッドモーニング・バビロン!』周防版というべき作品がこれなんだと。違うのはタヴィアーニ兄弟がそれを「美」として描いたのに対して周防監督は「喜劇(娯楽)」として描いたかに過ぎない。
日本映画前史なので『雄呂血』の前はどうゆう映画を撮っていたか、どの様に上映されていたかがサラリと描写されているし、映画が掛けられる場所は本来どのようなところだったのかも描写されるし、映画が地域のやくざにとって新たなシノギになりつつあるのも一緒に喜劇として描写されてゆく。そして、その見世物的な趣向がまだ強い当時にすでに映画を芸術 -- すでに映画は第七芸術という考えもあったし、その自律性を訴える識者もいた -- として認めている人物を置いて夜明け前の陽気さだけではない、下品さやいかがわしさも匂わせながら展開してゆくのがこの物語であり、その風景を横断してゆくのが、当時としての独特な職業でもあり花形だった弁士で。それを本作の主人公である染谷俊太郎をとおして描いてゆく。
もちろん、弁士を批判的にや哀感ではなくてたっぷりとリスペクトを込めて描かれていて。「写真(映画)をじゃない、俺の(弁士)説明に客が来ているんだ」みたいな台詞吐く弁士と映画を芸術として認めている人物のアイディアが交錯して俊太郎がそれを炸裂させるクライマックスは圧巻ですらある。この流れからも明らかに本作は「映画芸術が誕生する以前の映画を支えたのは弁士達」なのだということを伝えにきている。
ちなみに、映画批評家・映画学専門の加藤幹郎によると日本でこのような職業ができたのは、日本の話芸のひとつ歌舞伎や人形浄瑠璃における伝統芸能、義大夫語りがすでに大衆娯楽として根付いていた背景があったために成立できた。ことと弁士が映画スターのごとくに扱われた。とあるが、もっともなことである。
もっとも、それらを詰め込んで、さらに喜劇(娯楽)として提供しているので、やっぱり芯が見えづらくてピンボケているところもあるのだが、個人としては「許す!」
正直、『雄呂血』と『グッドモーニング・バビロン!』が好きな自分がこの映画を悪く言えないし、喜劇なのに泣きそうになったのも確か。まあ一言なら「ズルい!」のだ。この映画は。
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