注:ここは『ビッグ・アイズ』『フォックス・キャッチャー』『サイコ』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』『アマデウス』のネタバレになる可能性があります。
『ビッグ・アイズ』と『フォックス・キャッチャー』について書きます。
まずは『ビッグ・アイズ』から
『ビッグ・アイズ』の中盤、アートをある評論家に酷評されたときウォルター・キーンがその評論家に「書けないのに批評するな」みたいな台詞を聴いたとき自分(そして、おそらく他の観客も)感じたのは。
「お前が言うな!(言うか)」
だ ろう。「何をいってんだか」感だったのだが、後半でこいつ“狂っている”と知るのはウォルターがマーガレットのアトリエにマッチの火を鍵穴から投げ入れる シーンからだ。酒に酔っているとはいえ、商売の元を駄目にしかねない行為をするウォルターは狂っている!としか見えないだろう。そうゆう視点から見れば 『ビッグアイズ』のウォルターは『フォックス・キャッチャー』のジョンよりは幸せだったのかも知れない。売り文句では「大富豪の狂気」となっている 『フォックス・キャッチャー』だが自分の見方ではジョンは“狂っては”いない。映画での“狂う”表情をしていないからだ。
==== 〇狂気
映画での狂気の描き方を思い浮かべるとき誰もが思い出すのは『サイコ』だろう。
最後でノーマン・ベイツがまるで醜く笑っているかのように目元を強調して口元を大きくゆがめる。これ以降これが映画における“狂気”の描き方のデフォルトに なってゆく。『殺しのドレス』(1980)『羊たちの沈黙』(1991)もそれに倣っていた。そして『ビッグアイズ』のウォルターもやっていた表情だが『フォックス・キャッチャー』の ジョンにはそれが無い。それではジョンは何なのかといえば、彼は“子供”なのだ。
〇子供
ジョンが“子供”だと描写され ているのが装甲車に機関銃が付いていないというだけで突っ返す場面だ。マークが装甲車の上でバウンドしているのが良い味になっていて、その行為がマークもジョンと同じ“子供”である描写にもなっている。それと母親のジャン・デュポ ンがジョンと会話している際「(プロレスなどせずに)乗馬をすればいいのに」とジョンに言っている場面だ。母はジョンの資質を見抜いて「やれやれ」といっ た風に言っているのがわかる。女優が力強い女性を多く演じてきたヴァネッサ・レッドグレーヴを配役したのは意図したものだ。
〇幸福
『ビッグ・アイズ』のウォルターも(他人のものだが)画商に作品の売り込みをしていた描写があるから彼自身も画家に成りたかったことはわかる。『フォックス・キャッチャー』のジョンとマークも「母に認められたい」「兄を超えたい」という気持ちをもっていた“他人に敬意で認められたい”という共通をもっている。それが成らなかったらどうなるか?「狂う」か「絶望」のどちらかしかない。『ビッグ・アイズ』と『フォックス・キャチャー』はそれを描いている。ウォルターとジョンに共通している悲劇は諦念(認めて、諦める)という感覚に行かれなかったことなのだろう。さらに突っ込んでいうなら幸福とは「高度な諦念をした人」のことで不幸とは「高度な諦念ができない人」なのかもしれない。
ジョーダンは違法スレスレの方法で大金持ちになった。豪邸とスーパーカーと美人の妻をもちそれ以上のことを望まなくてよい身分になり、それ以上は違法になるとわかっていながら突き進んでしまう。ジョーダンもまた「高度な諦念ができない人」だった。そして、それを強欲とわかっていて「うらやましい」と感じて観てしまう人は「高度な諦念をした人」である。
太刀打ちできない巨大な“何か”に出会ったとき、それを認めるのは“あきらめる”なのだが、それができるのは自分から少し以上の(心の)距離をおけるからだ。距離が身近にありすぎるとどうなるか。『ビッグ・アイズ』のウォルターは妻であり『フォックス・キャッチャー』のマークは兄であり、ジョンには母とそれに富と家の名声の三連コンボが加わる。かなり難しいのではないかとブログ主は思う。『アマデウス』のサリエリは信仰とそれを通じて神の作曲を目指していたにもかかわらず、もっとも遠い男が神のような曲をあっさりと出してしまうことに怒り、神に“反逆”する。サリエリの最後の台詞「すべての才なき者に祝福あれ」は「高度な諦念ができない人」と「高度な諦念をした人」に対してこういい直しているのだ。「お前達は最初から神に愛されてはいないのだ」と。
だから、どうなるのか?
ウォルターは認めなかった。だから“狂う”
マークは認めて“堕ちた”
ジョンも認めて“反逆”をした。
ウォルターとジョンはまさしく幸福と不幸のすき間を通ったわけだ。
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