ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
例えば一本の木があって、それをお題にして複数の画家に「これを描いて下さい。やり方は貴方に任せます」といわれたときに、ある画家は水彩画でまたある画家は油絵で、またまたある画家は鉛筆でその木を描いたとする。そして、それぞれの画家のそのときの感情がそれに「何を見ているのか」との違いによって、その木の画に「生命の躍動感」や「大地に根付く安定感」そして「生命の終末感」が感じられたりもする。
「2001年宇宙の旅」はSF映画の金字塔であり映画史に残る名作である。そして難解な作品だといわれいる(らしい)。しかし映画評論家の町山智浩が指摘するとおりアーサー・C・クラークが小説化した著作を読めば説明はされているのがわかる。
説明はされている。されているのだけど。
微妙な「違和感」はぬぐえない。小説と映画の「この微妙な差はどこからくるのか?」
そこで、さっきの絵画の例えを使うと、こうなる。
「人形をモチーフにして絵を描いてください」とテーマを与えられて、陽気な人はそこに明るく生命観あふれる絵にするのかもしれないし、陰気な何かが乗り移った不吉な絵にするだろう。
『2001年宇宙の旅』では人形の換わりに「あるモノ」をお題に与えられている。
それは「知性」だ。『2001年宇宙の旅』では「知性」をお題にしてSF作家のクラークと映画監督のキューブリックがそれぞれ描いたモノが観客に違う印象を与えている。それはHAL9000の反乱のシーンからよくわかる。
クラークは知性は人と機械では「たいして差が無い」と考え。
キューブリックは人であろうが機械であろうが知性を生命の「原罪」として考えている。
つまり。
クラークは楽天的であり。
キューブリックは悲観的。
であるということ。
これが小説と映画の微妙な差なのだ。それは二人の作品歴からも分かる。
本来なら水と油のはずで結びつかないのだがクラークとキューブリックは根っこの部分で実は「神の不在」という無神論でしっかりと結びついている。これも二人の作品歴から分かる。
これが『2001年宇宙の旅』の魅力の一端であり、いまだに色々な解釈がだされる元なのだ。
ねっ、面倒でしょ!
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