ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
地球は統一された地球連邦のもとに管理され、人間たちは人口過剰を防止するために限られた人数だけ試験管ベビーとして育てられ、それぞれの将来の仕事や役割に応じた専門教育がほどこされていた。育児ロボット、オルガに育てられたゴドーも宇宙ハンターとして生きることが最初から運命づけられていた。その頃、政治センターでは、エネルギー不足を補うために人工的に火山爆発を起こさせる地熱発電を開発していたため地球はかなり危険な状態にあった。その危険を、誰よりも正確にキャッチしていた政治センターのロック・クロック長官は、自分の生命をまっとうしようと考え、不老不死の力を持つ体液を内包しているといわれる未確認宇宙物体ナンバー2772の宇宙鳥をなんとか手に入れようとしていた。そしてロックは宇宙ハンターとして抜群の技量を持つゴトーに宇宙鳥の生け捕りを命じた。一方、ゴドーは、その頃ロックの許婚者であるレナと恋仲にあり、ロボットのオルガはその事実に心を痛めていた。宇宙ハンターは恋を禁じられており、ゴドーは逮補され労働キャンプに追放されてしまう。彼はそこで、政府に批判的な言動で追放された大学者のサルタと出逢った。意気投合した二人はオルガの助けで脱出に成功、伝説の鳥を求めて、宇宙へ飛び立っていった。
映画comより引用
手塚治虫総監督
◆はじめに
今回も誰も観ないだろうという前提でネタバレ込みでこのアニメ映画について語るのだが、ハッキリいって映画として面白いのは最初の10分間だけで、あとはこれに取り組んだマンガの神様手塚治虫の当時の迷走ぶりをただ眺めてゆくしかないという感じになる。これを物見遊山の気持ちで楽しむか、それとも苦行として受け止めるかで評価は分かれるだろう。
ただ、その迷走ぶりは発表年の1980年代初期というのを念頭に置いてこれを見ると結構味わい深いものがある。つまりこのあたりの時代は1978年に日本(アメリカ公開は1977年)で公開された『未知との遭遇』と『スター・ウォーズ』による影響で日本のメディアにもSFブームがあったからだ。老舗の早川書店や奇想天外社や新興の出版社だけではなく徳間書店、光文社などの大衆小説を主に出していた出版社もSF雑誌を出版していたし、科学雑誌も老舗である岩波や朝日や日経だけではない出版社から刊行されていた。今でも出版されている科学雑誌『ニュートン』の登場もこのあたりからだ。
そうした風潮は映画やドラマにも確かにあった。しかし、映画もテレビも宇宙を舞台にした作品は思ったほどには盛り上がらず、どちらかと云えばそのムーブメントはアニメの方へ流れていった。1979年に『銀河鉄道999』の大ヒットがあったからだ。
◆松本零士ブームに乗って
歴史的な偶然性というべきなのかどうかは分からないが、1974年に放送されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』は一部に従来のカルチャーとは違ういわゆるアニメファンとかオタクとかの存在を意識させた作品だった。そして、そのデザインを担当していた漫画家である松本零士も注目を集めててはいたが、その頃はまだ一般的にはあまり名が知られていなかった。それを変えたのが1979年のテレビアニメ『銀河鉄道999』であり、とどめは同年の映画『銀河鉄道999』の大ヒットだった。当時の人気バンドゴダイゴに同名の主題歌を歌わせてそれが大ヒットしたことで相乗効果として松本零士の名は一般にも知られることになる。-- これは一般では名が知られていなかった新海誠が人気ロックバンドRADWIMPSと組んだことで『君の名は。』の大ヒットと共に新海の名が一般にも定着した例と似ている。
つまり当初の日本のSFアニメブームは松本零士ブームでもあったわけだ。
もちろん、その頃にはテレビアニメ『機動戦士ガンダム』も放送されていたし、映画『ルパン三世 カリオストロの城』も上映されていてファンや批評家からも評価はされてはいたし、『銀河鉄道999』を制作した東映もこの機に乗じて石ノ森(石森)正太郎の『サイボーグ009』や竹宮恵子の『地球へ…』も長編アニメとして制作したが、視聴率や興行成績はかんばしくなく松本零士アニメの大ヒットには敵わなかった。そこに割り込むように登場したのがこのアニメだ。つまり、ヒットさせるには松本零士のアニメ映画を観る一般者層向けに作らなければいけなかった。
◆火の鳥 2772
そして、1978年には2時間のテレビアニメ『100万年地球の旅 バンダーブック』を発表してカムバックの地ならしを済ませていた手塚は当時のアニメと差別化をするためなのか、それとも新しいことをやりたかったのかは分からないが、ここに従来のやり方とは違うアプローチで表現しようとしてきた。
実は、このアニメ映画は特撮映画の側面ももっている。当時のメカは『スター・ウォーズ』を代表するようなミニチュアの表面に細かいディテールをほどこしたものがメインだったが、アニメという手書きでそれをやるのは難しいと判断したのかメカのシーンをロトスコープでやったのだ。
ロトスコープとはモデルの動きを撮影して、それをトレースしてアニメーションにする手法で、その対象は人間と動物なのだが、このアニメ映画ではメカのミニチュアモデルを作って、SFメカとしてのディテールを表現しようとしたのだ。(画像は『火の鳥 2772』)
また、爆発をアニメーションではなく、水槽に垂らした液体を使い、それを合成してみたりしている。(画像は『火の鳥 2772』)
描写も当時のヒットSF映画を意識したところがあって、例えばこのシーンなどは一目瞭然。
そこに、手塚が憧れたディズニーのキャラクターシステム(キャラや動きをコントロールする作画監督ではなく、各アニメーターが一人のキャラを担当する)と動画が多めのフルアニメーションを取り入れて、手塚作品ではお馴染みのスターシステムも当然あり、「跳んでる女」などのギャグも入れてくる。
そして、前述した松本零士アニメをよろこんで観る一般客にむかって、送ったメッセージはズバリ「愛」だ。ここに登場する火の鳥の弱点は互いを思いやる心、つまりは「愛」だし、主人公の名前もゴドー(神)でヒロインの名もオルガ(形成)でそれを示唆しているし、クライマックスではまさに「愛は地球を救う」を照れもなくやったのが、このアニメ映画だ。
もっとも、そういったさまざまな工夫が何かで統一されているのかといえば、そうではなく、てんでバラバラとして点在しているので、やっぱり見苦しい。何だか受けを狙って若者に冗談をとばすが上手くゆかず白けてしまうオジサンみたいな感じなのだ。
実は、手塚自身もこのアニメの出来についてはSF雑誌などでこの映画の評価よりも音楽を担当した樋口康雄を絶賛していたので、作品そのものは満足していないらしく、作品の質よりも元からヒットだけを考えていたフシがある。しかし、結果はどうやら松本アニメくらいのヒットにはならなかったらしい。
そして、隆盛を誇っていた松本零士アニメも1983年あたりで頭打ちになって、収縮してゆき、やがてガンダムと宮崎駿アニメの時代がやってくるのである。
◆終わりに
手塚治虫ために一応の弁護をしておくと長編アニメではすでに対ディズニーを意識した『クレオパトラ』、『千夜一夜物語』があるし、手塚はかかわってはいないが、残った会社で制作された『哀しみのベラドンナ』は今でもコアなファンから評価が高い作品だ。そして、短編アニメでは『ジャンピング』や『おんぼろフィルム』の非商業アニメが高く評価されているので『火の鳥 2772』だけで手塚アニメのすべてをまとめて語るのは無謀なことなのだとは何となくだが分る。
手塚はかつて漫画家とアニメ作家との違いを「マンガは本妻で、アニメは愛人」と自らの気持ちを語っていた。額面通りに受け取れば「マンガで儲けて、アニメにつぎ込む」であり、つまり、「職人と作家」だ。
そして『火の鳥 2772』とは「職人の手塚と作家の手塚」が、あの80年代はじめごろのSFアニメブームの流れにどうやって乗ってゆくのかの試行錯誤をしていた。と見るべきなのかもしれない。
参考
『月刊スターログ 1980-3、1980-4』ツルモトネーム出版局
Hi no Tori 2772: Ai no Cosmozone Trailer