ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][加筆修正有]
『夜は短し歩けよ乙女』とは対照的に『夜明け告げるルーのうた』はファミリー層を意識したジブリ的なアニメ映画だ。だから内容は分かりやすい代わりに深海などの描写に独自の表現 --個人的には『アビス』、『ルパン三世 カリオストロの城』での水の表現を思い出したーー をしてファミリー向けでも湯浅監督「らしさ」が感じられる印象だ。
物語は主人公のカイと仲間達がルーと仲間達との出会いを通し変わってゆくひと夏を描いている。
そして、自分が思い出したのは同じくジブリの『レッドタートル ある島の物語』だろう。個人的なことを書けば二作ともひとりぼっちで観た体験もあるが…… ここでは『ルー』と『タートル』との関連を自分なりの考えで書いてみたいと思います。
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ここから先はネタバレになります。映画を観ていない方にはおススメできません。
ざっくりと『ルー』と『タートル』の同じイメージは他の創作でも描かれる不老不死と『ルー』の場合は歌という要素はあるが主人公を好きになる設定だろう。
『タートル』だと嵐の海で翻弄される主人公の男がある無人島でレッドタートルと出会うのに対して『ルー』ではカイが音楽をしているときにルーが現れる。一見違うようだが、実は同じでもある。
『タートル』の場合はどうして嵐なのか着目すれば何となくだが分かる。神話学の視点からすれば「嵐は神がおこすもの」だからだ。だから『タートル』では男を好きになったレッドタートルが意図的に嵐を起こして男を逃げ場の無い無人島に行き着かせた。と解釈できる。男が島から出ようとしてもできないところからもそれは分かる。
『ルー』の場合はどうか?それは巨大な岩陰で日の光が直接には当たらない日無町の設定がルーとカイの出会いを可能にしている。神道の視点からすれば日無町は常世と現世が交錯できる世界と解釈できる。そして時間の流れがある現世と違って常世には時間の流れが無い、だからルーと仲間達は不老不死なのだ。ルーの世界は「死後の世界」でもある。
だから『タートル』のレッドタートルと『ルー』のルーとカイは日常から切り離された世界でしか成立しない物語になっている。これが同じとこだ。
同じとこはまだある。それは「二つの世界は決して結びついてはいけない」ところだ。神秘の世界は俗世とは交わってはならない禁忌を破るとは畏怖が消えてしまうことでもありそれが消えると俗世での欲望に歯止めが利かなくなって暴走するからだ。
『タートル』には後半に島に大津波が襲うスペクタクルがあるが、その理由は「男とレッドタートルに息子が生まれた」から。だから男を殺そうとしたが、そうはならずに引き換えに息子が島から出ることで問題を解決したと解釈できる。
『ルー』の場合は遊歩の父が日無町の言い伝えを守らなかったばかりに大潮が町を襲う。幸いルーと仲間達の尽力もあって最悪にはならないが、これは常世の者を日の当たる現世にさらしたことで「無かったことに」するためにと解釈できる。
これは「誰が」というよりも一種の「法則」として考えればよいのかもしれない。
『タートル』の男は残りの人生を島で終え、『ルー』のカイは音楽の才能があるにも関わらず海の男へとその道を選ぶ。出会いが残り人生を決めたわけだが、そこに不思議と暗さはない。どこか落ち着くところに落ち着いた感じだ。
そこに「別の世界」が個人にどのような感情の色彩を与えるのかが堪能できる。そう見ることもできる。
ちょっとキザで大げさに言えばこうなる。
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