ここでは題名と名称を恣意的を表記します。[敬称略]
傑作!と、もろ手をあげて賞賛できないのが『ダンケルク』のツライところ。いや、観終わったあとの満足度は確かに悪くない。しかし、どこか違和感がぬぐえない。群集劇という主人公がいないドラマなのは理解している。だから、誰かに感情移入して観るものではないことも分かっている。これに不満なのはどうかしているとは思うのだが、数時間考えての結論が「これはSFではない」という決着に。今までの監督の作品はどちらかといえば「日常と非日常のゆらぎ」を主に描いていたので気がつかなかったものが戦争という実在した題材を取り上げることでノーラン監督の本質が明確に浮かび上がってきたことへのとまどいというべきか。
これから、この映画について思ったことを書くが、その際にヒントにしたこの記事。
ここから分かるのは映画は舞台だけではなく時間軸を浜辺のトミー(一週間)、海のドーソン(一日)、空のフェリア(一時間)の三つに分けたこと。そのために通常のドラマの感動とは違う感触が最後に湧き上がるので、自分と同じとまどいを感じた人もいるはずだ。
それは映画でトミーが「どこで用を足したか問題」にも繋がっている。
そして同時に、どうしてフィルム撮影とIMAXの上映にこだわったノーラン監督の意図も見えてくる。
今回はこの映画の批判をひとつ書いたあとに、自分が感じたノーラン監督の本質を書いてみたいと思います。
ここから先はネタバレになります。観ていない方にはおススメできません。
(ノーラン監督は)実際の景色は撮るのだけど、それは象徴的な世界として作り直す。……常に用は「俺の考えた何々を」やっている人。現実世界を一端、写し取って映画の中で別の世界として再構築する。常に俺の考えた何々をやっている人。
ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル『インターステラー評』(2014/12/13)より。
批判は簡単にいえばこうだ。浜辺でのトミー(達)の時間経過が描写されていない!
常識で考えたら分かる。一週間もあれば髭ぐらいは伸びるはずだ。なのにそのままだ。
これはトミーだけではなく、浜辺にいる登場人物すべてにいえる。彼等はどこで髭をそったの?
これは海(一日)のドーソンにもいえる。息子の友人が死をさまよっているのに、それを放置している。倫理的な問題をもちださなくても変だと感じる。
これは映画では致命的なミスだ。サスペンスどころか基本すら破壊している。誰かがそれを指摘したはずだ。なのにそのままなのだ。
としたらそれはノーラン監督の意図として「そうした」としか考えるしかない。つまりこの映画は戦争を題材にこそしているが、戦場の再現を目的にしたものではないということだ。
それはクライマックスに活躍するフェリアが操縦するスピットファイアの勇姿で監督の意図が分かる。これはダンケルク(ダイナモ作戦)を再現したのではなく「監督が心で見た、感じていたダンケルク」を自分達は観ているのだということをだ。そう感じても当然なくらいに、あのスピットファイアは美しい!
つまりこの映画は物語(叙述)ではなくパノラマなのだ。時間を追って楽しむのではなく展望で楽しむ形のエンタメだ。そのための時間軸の改変だ。
これがクリストファー・ノーラン監督の本質だ。これに近いのはロマン主義だろう。今まで非日常を題材した作品が多かったので気が付かなかっただけだ。
そしてノーランがダンケルクという撤退戦で描いたのはその物のというべき美しい絵だ。
フィルムの粒子感も画面いっぱいのIMAXもそのパノラマを魅せるためだといってもよい。タッチが分かる壁いっぱいの壁画を見ているようなものだといっても良い。
それがノーランであり『ダンケルク』だ。
カラー版 - 近代絵画史(上) 増補版 - ロマン主義、印象派、ゴッホ
- 作者: 高階秀爾
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2017/09/20
- メディア: 新書
- この商品を含むブログを見る