えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』における二つの改革についてネタバレスレスレで語る

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][加筆修正有]

 

ポスター画像

www.imdb.com

 

『最後のジェダイ』はスターウォーズサーガの8作目であり、レイ三部作の二作目にあたる。前作で探し出したジェダイマスターであるルーク・スカイウォーカーとレンとカイロ・レンの真実と葛藤。そして敵であるファーストオーダーの追撃から逃れるために奮闘するレイヤとダメロンとフィンの活躍を交互に描く。

  

 ドキュメンタリー映画ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス』はジョージ・ルーカスが創造したスター・ウォーズの世界に熱狂するファンとその世界観をいじり続けるジョージ・ルーカスとの長い愛憎劇をメインに作品世界は原作者のものなのか、それともファンのものなのかを描いている。具体的な内容はルーカスがSW世界をいじる際にファンがあれやこれやで突っ込むのが見所になっている。

 

いきなり関係ない話題から始めたのは。いわゆるファンが『SW』のどこに魅力を感じているのか?そしてルーカスはなんのために『SW』を撮ったのか?を明確にしなければ、この巨大なコンテンツ(あえてそう書く)を語る際に迷走する可能性があるからだ。

 

ファンは『SW』のどこに魅力を感じたのか?それはかってあった『季刊 映画宝庫 第6号』で寄稿している翻訳家でSF作家だった野田昌宏が述べている。

はじめて宇宙空間を堂々と真正面から活劇の舞台として捉えた。そしてそれを低俗なドタバタ活劇にまでは決しておとさなかった。

 これだろう。東宝特撮に馴染んでいる者としては実感しにくいが、それ以外SF映画は大体がそうだったから。『SW』はそれらとは違って、いわゆる安っぽさが無いのが大きな魅力だった。

 

それではルーカスはどうして『SW』を撮ったのか?これも『季刊 映画宝庫 第6号』で寄稿している評論家の小野耕世がルーカスの発言として書いている。

「ぼくが『スター・ウォーズ』を作った大きな理由は、若い人たちに、ぼくたちがかつて持っていたような誠実(無邪気)で健全なファンタジィを与えたいと思ったからなのさ。彼らが、いまもっている世界といったら、刑事コジャックとか、ダーティ・ハリーなんだからね」

 「安っぽさの排除」と「子供のため」。この二つが『SW』の原点だ。

 

ここから『最後のジェダイ』について書くが、この映画では二つの改革が行われている。一つ目は誰でも分かる「フォースの世俗化」だ。ルーク三部作で "もう一人" と言われた人物が『最後のジェダイ』ではいきなりフォースを発動するからだ。もちろん、その人は意識してそれを行ったのではなくて、まさに瀬戸際でそれをするのだが、そこからみえるのは「フォースはある種の人物による特別なものではなく、誰にでも発動できる」という定義だ。まさにルークのいう「そこら中の間にある」のがフォースだ。

 

それではジェダイや暗黒面とは何かといえば「フォースを制御できる存在」だ。ある人物どおしがフォースを介して対話 -- それは『エピソード4/新たなる希望』でオビ・ワンがルークに囁いた。「フォースを使え」の拡張であり、今風でもある。-- できるのも、あのクライマックスからみてもフォースを自由自在に操ることができるのが彼らだ。

 

二つ目は「フォースの世俗化」が行われるのなら。それを必ずしも信奉しなくても良いはずなので。ここでもやはり信奉しないキャラが出てくる。ローズだ。『ローグ・ワン』はフォースを持たない者たちの奮戦を描いていたが、彼らの行動の源にはフォースがあった。だから、まさに命がけであれだけの事ができた。しかし、ローズはクライマックスであんな事をする。それは「フォースよりも大切なものがある」と主張しているのと同じで今までのSW世界の反乱軍キャラではあり得なかった設定になっている。彼女はフォースの呪縛(?)から抜け出たキャラクターなのだ。もしかしたら彼女も次作ではフォースを信奉するかもしれないが。それでもこの設定はSW世界においては新しい風でもある。

 

この二つの改革で『最後のジェダイ』が何をしたかったのかを考えると、それは『スターウォーズサーガ』がジョージ・ルーカスの手を離れた。だけではなくて「原点へと回帰」したとみるべきだろう。だからこその、あの夕日なのだ。

 

そこで、前に書いた『SW』の魅力とルーカスが『SW』を撮った理由に戻って、『最後のジェダイ』について書くと、二つの改革で硬直化した世界観 --何しろ今や『SW』がSF映画のスタンダードになっている。-- 再設定でリフレッシュがなされたとみるべきだし、SW世界がファン(かつては子供だった人)も含め、子供(現在)の手に戻った瞬間でもあるのだ。そう見るべきだ。

 

意地の悪い言い方をすれば、永遠に続けられるディズニーのビジネスとしてのラインに乗った訳だが、質が悪くなり続ければ、それはいつかは飽きられて棄てられるのだから正直にいえばどうでもいい。

 

大切なのは、どれだけ断絶せず語り継がれる。かだ。SW世界では現世(とりあえずこう書く)に何かを残せたものが肉体が消えてもフォースでその姿を再現できるし。フォースを使える。一方でパルパティーンスノークは現世で再現できないしフォースも使えないのはそのためだからだ。つまり、この映画はキャラクターだけではなくファンも次世代へと繋げる目的がある。先にコンテンツと書いたのはそうゆうことだ。

 

そして、最後のシーンはこれから『スター・ウォーズ サーガ』に触れる子供たちへのメッセージでもあるのだ。「ようこそ!」と。

 

 


「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」本予告

 

 

スター・ウォーズ/最後のジェダイ  オリジナル・サウンドトラック

スター・ウォーズ/最後のジェダイ オリジナル・サウンドトラック

 

  

アート・オブ・スター・ウォーズ/最後のジェダイ

アート・オブ・スター・ウォーズ/最後のジェダイ

 

 


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