ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
ベストセラー作家の池井戸潤の経済小説の映画化。ある天気の良い日、道路を走行中のトラックからタイヤがひとつ脱輪してある親子を襲った。事故を起こした運送会社社長、赤松徳郎は整備不良を疑われバッシング受けるが、赤松自身は整備不良ではなくトラック自体に問題があると確信して独自で調査しようと販売元のホープ自動車に脱落部分を返却してもらえるよう交渉するが、担当の沢田悠太はのらりくらりで交わすので進展の目途が立たない。赤松の「孤独な闘い」がはじまる。
ドラマは「現場に根差したプライド VS ブランドに驕ったプライド」だ。だから、仕事の一線で働く男が善に近いところで設定されていて、一線から遠いところにいる男が悪と設定されている。映画での台詞とは裏腹に構造は分かりやすい。映画で常に誰かと顔を突き合わせている長瀬に対して組織内でしか顔を合わせていないディーンが、あるモノを通してはじめて数字ではない顔と突き合わせたことでドラマと感動が起こり奇跡の逆転劇が生まれる。と作り手たちは計算して構成をしているのは分かる。
しかし、その計算は成功していないから逆転劇の爽快感は無いし、ましてや深い感動も生まれてはいない。ハッキリいってこの映画は失敗作だ。
もっとも、それは原作の情報量に対して映画の尺(時間)が足りないからではない、小説と映画の情報は別のモノだからだ。だから、これでいえば小説から映画への変換が失敗しているといったと考えた方が良い。
具体的にはこのドラマの根本で重要な要素であるT会議のシーンをあっさりと描写して、多くの人々を巻き込んだ、この会議の陰湿さと醜悪さを印象づけるのに失敗している。だから爽快感も深い感動も生まれて来ない。それだけだ。ここでその二つを印象づけることができたのなら、あの構成でも上手くいったはずだ。
代わりに表立つのは岸部一徳で「組織」を台詞で強調する割りには、岸部一徳をどうギャフン!と思わせるかにすり替わっているところがあるので、微妙にはぐらかされてもいる。つまり監督が脚本を理解しないで演出をしているか、あるいは何らかの横やりでこうなってしまったのかのどちらかだ。
さらに付け加えると、高橋一生のパートは余計だ。無くても良い。長瀬とディーンだけでこのドラマは成立するからだ。ディーンから吸収合併の話をすれば良いだけだ。それで観客の留飲は下がる。
これが原作どおりだとしても映画への変換に失敗している訳だし、下手をすると原作の弱点を見抜けずに映画化にした。と言われても仕方がないだろう。ともかく10代20代前半ならともかく30代以上の以上の大人が観るには堪えられないのがこの映画だ。