ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
アメリカのとある森に降り立った異星人。そこでサンプルとして植物を収集中、彼らとコンタクトしようとする政府の追手にあい、宇宙船は間一髪で脱出することができたが、その際に一体だけが取り残されてしまう。ひとりぼっちになった異星人は偶然に両親が離婚したばかりのエリオット少年と知り合い、宇宙船が自分を迎えにくるまで匿ってもらうことになるが、異星人とエリオットには不思議な絆が芽ばえつつあった。
◆E.T.
スピルバーグ監督作品によくある画に逆光がある。それはスピルバーグ作品にとって、文章で云えば濁点を入れたり、アンダーラインを引いている箇所であるので、そのくらい大切なポイントでもある。そういう意味で逆光が盛りだくさんの『E.T.』は映画監督スティーブン・スピルバーグの想いとスタイルが炸裂しているし、当然ごとく代表作で名作で、当時のヒット作でもある。
のだが、自分は『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』のアクションが好きだったこともあり、当初はこの面白さにノレなかった作品だ。
どうしてノレなかったのかと云えば、SF映画ではなくてファンタジーだからであり、しかも童話に近いのでSFを期待していた自分にとっては期待と出来上がりの差がありすぎてしまったからでもある。童話なので主人公エリオットの心境に焦点をあてて展開するドラマは教条的に感じたのだ。
もちろん、SFは表面的な要素にすぎず、このドラマが「両親の離婚」であり、ラストシーンが両親の離婚を受け入れるメタファーでもあることはWikipediaでも解説されている。ただ、自分としてはこれは少し説明が足りないとも感じる。
だから、そこからスピルバーグ自身は「どう立ち直りたい」と感じていたのか?そして、実際にどのように「立ち直っていったのか?」というのを語るのが、今回の主旨だ。これをかなり雑に語ってみたいと思う。
それを知る手掛かりとして監督自身の発言として『戦火の馬』時のプロモーションインタビューから引用すると……
恐れているものについて映画を作るということは自分の不安に対する、いわばセラピーになると思うんです。映画製作者やアーティストはよくやるのですがみずからの体験や恐れなど自分の胸の中で潜在的に実感できる物語を描くほうが、よい物語につながっていくのです。
こうも発言している。
……私は、もともとシャイでしたがだからといってシャイな人の映画を作るわけではありません。その願いを映画にするのです。子どものころインディ・ジョーンズみたいな友達が欲しいとかそういう人間味のあるスーパーヒーローの映画を作りたいと思っていたんです。これは願望の成就とでもいうのでしょうか。自分に嫌気がさしたとき昔から憧れたキャラクターを描くのです。でも、これも自分に正直だからやるのです。自分が不安に思っていることに正直に向き合っているのです。ずっとなりたかったけれど、絶対になれない人、そういう人を映画にするのです。
この二つの発言を考えに入れて『E.T.』を観直すとこうなる。
① スピルバーグは両親の離婚で孤独感と疎外感に襲われた。
② その孤独感と疎外感を埋めてくれる願望があった。
この二つだ。「孤独感と疎外感」、つまり「ぼっち」感こそが監督自らの感情の底として居座っていた事だ。それを見つめ直すために異星人と少年の心の交流を描いた。
だとしたら主人公のエリオットはスピルバーグ自身ではない。 つまり『E.T.』におけるスピルバーグの身代わりは別の登場人物のはずだ。内容を憶えている人なら気がついていただろうが、もちろんそれは俳優ピーター・コヨーテが演じたNASAの科学者キーズに違いない。それにはスピルバーグ監督が撮った『未知との遭遇』に登場した人物から容易に察せられるからだ。
『未知との遭遇』には政府間で密かに異星人と接触(コンタクト)する計画が存在して、そのリーダー(らしき)フランス人科学者のラコームだ。演じているのは映画監督フランソワ・トリュフォー。ここでは割愛するが、ヌーヴェルヴァーグの映画人であり、代表作は数あれど、ここでスピルバーグと関連するのはトリフォーの自伝的映画でもある『大人は判ってくれない』だ。内容は「両親のいざこざで孤独と疎外に陥る少年」の話であり、ようするに『E.T.』と同じ「ぼっち」を描いている。つまり「ぼっち」の先輩だ。そんな男を計画のリーダーにして主人公ニアリーが異星人に選ばれて宇宙の彼方へと去ってゆくのを見送らせている。そこから見えてくるのは『未知との遭遇』もSF映画ではなくてスピルバーグ自身の「ぼっち」を描いているということだ。もう少しつけ加えれえば心の底から分かち合えて「ぼっち」を埋めてくれる異星人こと友達がほしくてたまらなかった子供時代の感情を光と音が舞い散る見世物として描いているのが『未知との遭遇』だ。
だから、『未知との遭遇』のラコームは『E.T.』のキーズであり、スピルバーグ自身のことでもある。そう言い切れる。
スピルバーグにとって子供時代とは「ぼっち」だ。子供を主人公にした『太陽の帝国』も『A.I.』もやはりどこかに「ぼっち」が漂っていた。それくらいに「ぼっち」だ。
そのスピルバーグが、自身にわだかまっている「ぼっち」と最終的に、どのようにけじめをつけたのかが分かるのは2015年公開の『ブリッジ・オブ・スパイ』になる。
『ブリッジ・オブ・スパイ』は実話を基にしたサスペンス映画であり、SFではない。それが、どうして『未知との遭遇』→『E.T.』のラインに位置する作品なのかと問われれば、スパイを演じた俳優マーク・ライランスがE.T.によく似ている、という個人的印象からなのだが。-- ちなみにある飲み会でそれを言ったら大うけに爆笑された -- プロットだけを抜き出してみても「置いてけぼりにされた者をもとの場所に帰す」という意味で『E.T.』と同じだ。そして主人公のドノヴァンとスパイのアベルとの間に国家を超えた心の絆が生まれるのもだ。なぜそう言い切れるのかと云えば、そこには逆光があるからだ。
注目すべきことは、もうそこには『未知との遭遇』のニアリーも『E.T.』のエリオットもいない、かつて見送っていた人物が当事者になっている。だから、そこにいるのはラコーム→キーズ→ドノヴァンであり、これはもちろんスピルバーグ自身だ。
そして、この映画ではドノヴァンとアベルの別れにちょっとした捻りを加えている。通常のスパイサスペンスならそこに定番の苦い後味エンドとして解釈すべきだろうが、『未知との遭遇』と『E.T.』を得たあとだと、それは「心を通じ合った友達との永遠の別れ」であり、やはりここでも「ぼっち」なのだ。-- もちろん、実話を基にしているので自分勝手な吐露が終わったら。実在の人物に対する尊厳も表明している。それはエンドロール前の字幕で分かる。
つまり、スピルバーグは「心の底から分かち合える友達ができなかった」と悔恨しているだけなのだ。それが監督の諦念なのだ。
だから、この映画だけなら分かりにくいが、『未知との遭遇』と『E.T.』を観た後でなら、これはスピルバーグにとっての「ぼっち」に対するけじめであるのは自分の手前勝手な見立てとも思えないのだ。
『レディ・プレイヤー1』はネットでの仮想現実を描いた冒険モノだが、メッセージは明確だ。仮想現実と現実でも人との繋がりは隔てなくある。であり、だからこそ、現実でも人との付き合いは大切。と説いている。これを教条主義としての説教ととらえてしまいがちなのだが、上記の3作品を鑑みれば、かつては映画青年だった男が、今や老年になったことで若者たちに対して素直に送る切実さを込めた願いでもあるのだ。
「友達を作りなさい」と。
以上、特に良い締めの言葉もないので終わります。
引用元
永遠の映画少年 スピルバーグ ~創造の秘密を語る~ - NHK クローズアップ現代+
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