えいざつき ~映画ポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。映画、SFが多めです。そして妄想が暴走してポエムになります。

【ネタバレ無 (?)】戦争の真の恐ろしさというもの『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

お題「最近見た映画」

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

 

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www.imdb.com

 

こうの史代の同名漫画をアニメーション映画化してロングランヒットを記録して、国内外で高い評価を得た『この世界の片隅に』に、新たなシーンを追加した長尺版。日本が戦争のただ中にあった昭和19年(1944)、広島市に住むすずは、見知らぬ呉の北条家に嫁ぎ、夫の周作とその家族に囲まれ、新たな生活を始める。戦況の悪化に伴い生活も困窮していくが、すずは日々の暮らしを紡いでいく。そんなある日、闇市の帰りで迷い込んだ遊郭でリンという女性と出会ったすずは、境遇は異なるものの、呉ではじめて出会った同世代の女性であるリンと心を通わせていくのだが……。

片渕須直監督

 

注意:できる限り内容への言及は避けますが、抵触しそうな可能性もあるので、純粋にこの映画を楽しみたい方には、ご遠慮くださるようお願いします。そして今回は、『この世界の片隅に』を『片隅に』と、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を『いくつもの』として表記します。

 

 

◆はじめに

今作の『いくつもの』で追加されたのは大きく分けて二つだ。

 

Ⓐ 原作にはあったが『片隅に』でカットされた白木リンの挿話である夫・北条周作とリンの過去にすずが苦悩するシーン。 

 

Ⓑ これも『片隅に』でカットされた、終戦の昭和20年(1945)8月15日のあと9月17日に広島(日本)を横断した台風(枕崎台風)のシーン。

 

このふたつだ。より原作に近くなったがためにおきた印象の改変だともいえる。 -- 元々原作者であるこうの史代が原爆を題材にした『夕凪の街 桜の国』で戦争と原爆を描いてしまったところを、原作ではそれ以外の戦争中の生活としての方向性で描かれているので、そうゆうのになるのは当然だろう。

 

そこから、このアニメ映画は大多数の感想・評価は以下に落ち着いている。いわゆる「単なる長尺版ではなく、全くの別物である」と「反戦のメッセージが弱まっている」だ。

 

それくらい『いくつもの』は『片隅に』とは違う別の作品になっている。という印象なのだ。そこで、今回の趣旨は「どうして別物なったと感じたのか?」と「そして反戦のメッセージは本当に弱いのか?」について自分の思うところを簡単に書いてみたい。

 

 

◆庶民の象徴から自立する女性へ

『いくつもの』でⒶの追加で語られているのは、すずが周作の元に嫁入りしたのは、かつてリンと周作の婚姻話で北条家と揉めたからであり、つまり、すずはリンの「代わり」ではないかと、すず自身が苦悩する。のだが、この展開は通常だと変だ。当時の常識でも遊郭の女とは「世間と切り離された存在」であり、いわば「格下の女」たちでもある。嫉妬はしても、すずが「勝てない」と嘆く展開はおかしい。もちろんリンは学校も行っていないからカタカナ以外のの読み書きしかできないので教養もない。だから、すずが嘆いているのは「(当時としては)普通に生きてきた自分(すず)とは違って、苦難の日々を送って来たのに、それを表に出さないリンのの生き方の強さに」対して「勝てない」と嘆いているのだ。もし単に周作とリンの関係について苦悩するだけなのなら、リンと同じ遊郭の女である、テルの挿話は必要がない。あそこは、すずの優しさを描写するシーンだけではなく遊郭で生きる人々の現実を部外者(観客)であるすずが垣間見るシーンでもあるからだ。だからこそ「勝てない」のだ。

 

だから後半の晴美と右手を失ってどん底に堕ちてしまって、そこからすずが立ち上がってゆくか過程は「リンと同じ様な状況」に陥ったのであり、そこから立ち上がってゆくのは、前半での「勝てない」と思ったリンにすずがなろうとしている決意を描いている。すずが「笑顔の器」と自ら言うのはそうゆう意味だ。だから、リンが記憶を忘れる贅沢をすずが憶えている贅沢にする締めに繋がる。

 

この一連の展開から見えてくるのは『片隅に』ですずを通して描かれたいたのは「庶民」だったのに対して『いくつもの』で描かれるのは「個人としてのすず」であり、主体性をもっていなかったが、主体性を持とうとする「すずの自立」を描いたドラマなのだ。

 

実は、こうした展開は恋愛を扱ったドラマでは、お決まりの展開でもある。最近だとアブデラティフ・ケシシュ監督『 アデル、ブルーは熱い色 』でもあり、今泉力哉監督愛がなんだに近い。もっとも、『いくつもの』に挟まれているのが恋愛ではなくて戦争という違いはあるが。

 

◆戦争の恐ろしさとは人が死ぬことではないということ

次にⒷだが、これで、ある種の相対化がなされて戦争の悲惨さと加害者としての観点 -- 特に玉音放送でのすずの激昂するシーンのインパクト -- が軽減された印象を感じてしまう人が多くいるのは分かる。しかし、戦争の本当の恐ろしさとは「人が死ぬことではない」と見るなら別になる。すずの幼馴染みであり「何も知らなかった(子供)時代」を象徴する水原哲は家が貧乏なので当時の常識として軍(海軍)に入り、軍人として任務を果たすうちに「人間の当たり前から外れた」台詞にも掛かることなのだか、早い話、戦争とは「自由な意思を奪う」ことであり、つまり「徐々に主体性を奪う」ことでもあり、それが最終的には「日常的な感覚も奪う」結果になる。軍人とは上の命令通りに動かなければならないのであって、それは「人間としての主体性を棄てる」行為でもあるからだ。そして『片隅に』では暗として描かれていた、国が戦争遂行のために国民を戦争へと参加させるための政策(戦時動員)への批判が、『いくつもの』ではより具象化された形となった。つまり、ここで描かれている「恐ろしさ」とは映画『ハンナ・アーレント』でも描かれた「凡庸な悪」そのものだからだ。

 

「凡庸な悪」とは親衛隊中佐としてホロコーストに関与したアドルフ=アイヒマンの裁判を記録したユダヤ人の政治哲学者ハンナ=アーレントが提唱した概念で、「ユダヤ人迫害のような悪は、根源的・悪魔的なものではなく、思考や判断を停止し外的規範に盲従した人々によって行われた表層的な悪であるからこそ、社会に蔓延し世界を荒廃させうる」という考え方だ。つまり『片隅に』では国に対する戦時動員の批判が『いくつもの』では、どうしてが「国民がそれに従ったのか」を「凡庸な悪」を使うことで、よりクッキリと描き出しているのだ。そしてそれは辛辣だともいえる。

 

どうしてそういえる。のかといえば、Ⓐですずの主体性について描いているのなら、Ⓑも必然としてそう導かれるからだ。つまりは、『片隅に』では右手と晴美を失ったきっかけで、この欺瞞に気がついたすずが、『いくつもの』では、主体性を持ち始めたすずの苦悩へと描写の流れが切り替わっているのだ。

 

 だから、メッセージが薄くなったというよりも、より思索されたモノになっている。一度観ただけでは分からない。自分も最初は、異様さを感じたが言語化できずに二回目でそれが分かり、その辛辣さに陰鬱な気分になったのだから。

 

◆終わりに

こうして『片隅に』と『いくつもの』との違いについて書いてきたのだが、それを簡単に要約すれば『片隅に』が設定とプロットで魅せる通俗なら、『いくつもの』では文脈を読み取れなければいけない純文学に変化したともいえる。『片隅に』が直木賞なら『いくつもの』は芥川賞といったところか。

 

特にいい締めの言葉も見つからないのでこのまま終わります。

 

注釈:しかし、『いくつもの』で描かれるリンはそれらしいことをつぶやいているだけで内面・心情の描写がなされてはいない。すずが勝手にそう感じているだけにもみえるし、周作が好きだったのかも疑わしいところがある。

 


『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』予告編

 

 

「この世界の片隅に」さらにいくつものサウンドトラック

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  • アーティスト:音楽:コトリンゴ
  • 出版社/メーカー: フライングドッグ
  • 発売日: 2019/12/18
  • メディア: CD
 

  

この世界の片隅に コミック 全3巻完結セット (アクションコミックス)

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