えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

晩酌で観た映画『生きる』

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

ストーリー

市役所の市民課長・渡辺は30年間無欠勤、事なかれ主義の模範的役人。ある日、渡辺は自分が胃癌で余命幾ばくもないと知る。絶望に陥った渡辺は、歓楽街をさまよい飲み慣れない酒を飲む。自分の人生とは一体何だったのか……。渡辺は人間が本当に生きるということの意味を考え始め、そして、初めて真剣に役所の申請書類に目を通す。そこで彼の目に留まったのが市民から出されていた下水溜まりの埋め立てと小公園建設に関する陳情書だった。
スタッフ

監督 黒澤明
脚本 黒澤明 橋本忍 小国英雄
製作 本木荘二郎
撮影 中井朝一
照明 森茂
美術 松山崇
録音 矢野口文雄
編集 岩下廣一
音楽 早坂文雄

1952年製作/143分/日本

映画.comより引用

 

今回はネタバレなしの解説モード

 

前回でリメイク版『生きる LIVING』について書いてしまったので、成り行きとして黒澤明のオリジナルについてもやっておこう。

 

『生きる LIVING』の感想で、オリジナルことコノ作品は「高みの視点から描いたダイナミックさがある」、と書いたけども、もうこの評価は別のところでは散々に語られた感がする。しかし、前回にそれを具体的に書かなかったので、今回は自分の考えを書き示しておきたい。

 

さて、細々としたのは色々とあるが、めんどいので、二つにしぼれば、それは実存主義からの視点で描かれていることと、コノ作品は『タイタニック』(1997)ばりのスペクタクル映画でもある、という事だ。

 

まず高みの視点、実存主義は100以上の歴史があるので流派は様々あるがぶっちゃけでまとめれば、「宗教や組織に頼らずに自らの主体性をもって生きること」であり、早い話ヒューマニズムの源流でもある。

 

当然、実存主義に基づく文学や演劇は第二次世界大戦前後には存在していたが、第7芸術の映画にはマダそれはなかった。

 

そこに現れたのが黒澤の『羅生門』でありコノ作品であり『七人の侍』だ。実存主義的人物像が映像として具現化された姿がそこにはあり、それが当時のアカデミズムやインテリを黒澤作品の虜にさせた。

 

当初、世界のクロサワは哲学作品として評価されたのだ。

 

その視点から見てしまえば、コノ作品も実存主義的人物像による作品だとハッキリと分かる。息子もダメで、快楽にも溺れられなかった主人公が最後に行きついた境地が公園へと向かうのは主体性を指示する実存主義的人物像そのもの。

 

生きる

-- あ、でも、「脚本の人そこまでは考えていないと思うよ」な考えなら、そうかもだが、黒澤や当時の芸術青年等の愛読者だったロシア文学の影響を受けていたら、結果としてそうなっても不思議はないかもだ。何せ専門家からはそれらの雛形として指摘されているから。

 

-- あと、余談で、巷で「哲学的」と呼ばれている作品のほとんどが、実存主義の視点から書かれている。黒澤作品はその嚆矢にあたる。これマメな。

 

ただ、それだけだと、前述したアカデミズムやインテリだけが好むモノとなってしまうが、コノ作品が一般大衆の心を掴んだのはソコに「スペクタクル」があるためであり、大衆がそこに感動作らしからぬダイナミックさを刺激されて、だからこそ幅広いそうから今でも支持されている。

 

それでは、コノ作品のどこに「スペクタクル」があるのかといえば……

 

生きる

スタンダードサイズの画面を隙間なく一杯にして画の密度を上げる!

 

ドンキか!

 

はたまた書籍タワー積みか!

 

これらにワクワクしなかった者だけが、コノ作品を批判せよ!

 

と、まぁ。こんな感じ。

 

とにかく、できる限り画の密度を高くして、クライマックスの『ゴンドラの唄』で画の密度をストーンと下げることで観客の感情を誘導しているのは明らかだ。

 

とにかく、実存主義と画の密度こそが、コノ作品の魅力を形作っているのは確かだ。

 

DVDで鑑賞。

 

 

 

 

 

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