ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
ファッションデザイナー志望のエロイーズ(トーマシン・マッケンジー)は、ロンドンのソーホーにあるデザイン専門学校に入学するが、寮生活に向かず一人暮らしをすることに。新しいアパートで暮らし始めた彼女は、1960年代のソーホーにいる夢を見る。エロイーズは夢の中で、歌手を夢見るサンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)と出会い、肉体的にも感覚的にも彼女と次第にシンクロしていく。
シネマトゥデイより引用
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
今日のポエム
街の記憶
今回は超ネタバレギリギリの解説モード。
注意:今回はネタバレに抵触しそうな部分を白黒反転にしています。また純粋に本作を楽しみたい方には読まないことをお勧めします。
まあ、面白かったです。
まあ、の部分は後回しにして、恥を忍んで無知を晒せば、本作が公開される前まではロンドンのソーホーが現在では歓楽街から若者中心で溢れているファッションの街へと変貌していた事をまったく知りませんでした。多分コレが無かったらずっと知らなかったかも。
もちろん、さすがに歓楽街じゃないのは、何となく悟ってはいた。別にロンドンに限らず、1980年代頃までは地方都市にも飲食店、映画館、遊技場、そして風俗業か混在していた歓楽街はあったから。地方ですら、それらは衰退している状況なので、ましてやロンドンならなおさらな感じ。でもまさか、ファッションの街になっているとは。
もっとも、自分も物心がつく時分には、それらは衰退の方だったので、その名残りしかなかったと言っても良い。イギリスの事情は知らないけど……
さて、どうしてくどくどと個人的な感情を吐いたかといえば、本作のもうひとつの主役はソーホーという街そのものだからと思ったからだ。
もっと具体的にすると、
トーマシー・マッケンジー演じるエロイーズ。
と、
アニャ・テイラー=ジョイ演じるサンディ。
と、
ソーホーの街。
この三つが本作の主役。
でも、その前に本作はその解釈違いで作品の評価が変わってしまうくらいの大きな疑問点があって、これをまず解説しなければいけないのでそれをする。
結論からいうとエロイーズは幽霊が見えるのではなくて、魂と同期する人間。つまり憑依体質の持ち主だという事だ。
霊が見えるのと、憑依されるのとは同じではない、結構に違う。前者が客観的に見える自由意思が保たれているのに対して、憑依とは他と融合することで主体性が怪しくなって客観が無くなり自由意思では無くなるからだ。
日本ではピンとこない論理だろうが、主体性が怪しくなるは、欧米のリベラルの基準から見れば自立できていないという視点で批判されるケースが多いし、映画作品だと悪い事として描かれるのがスタンダードだ。
ぶっちゃけ映画『シャイニング』(1980) のジャック・ニコルソンと同じ。(画像はIMDb)
もちろん、憑依が自分の当てずっぽうではなく根拠があるのは、監督のエドガー・ライトが影響を受けた作品に『回転』(1961) 『雨の午後の降霊祭』(1964) の二作を上げているから。
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— 映画『ラストナイト・イン・ソーホー』公式 /大ヒット公開中 (@LNIS_JP) 2021年12月14日
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ネタバレを避けるために詳しい説明は省くが、この作品等は、まさし憑依を描いているからだ。そして結末も悲劇で終わる。
もちろん、そうした作品の外側からの情報だけでなく作中でも、それはちゃんと語られている。あるアフリカ系の人物が「僕の祖母もそっち系」だと台詞にあるからだ。つまりはシャーマニズム、シャーマンだと言っているから。 なので憑依。
憑依なので、霊が受けた被害、例えば傷も憑依体質者が受け取る事ができるし。そして一番のポイントは死んでいない霊、つまりは生霊にも憑依しやすい体質にもなっている。日本で生霊とは、その人の怨みが積み重なって現れるように、魂と肉体が分離できるし、その魂に憑依する事もできる。そしてそれをアフリカ風に言い直すなら妖術になる。
反転開始;だから、エロイーズが見ていたサンディはシャーマニズムの視点から見れば生きていても当然なのだ。そして、彼女から抜け出した魂の記憶をエロイーズは体験している。
もっと端的に言ってしまえば、サンディは「あの時」から死んでいたのたとも解釈できる。だから身体を求めてくる男共を目が無い「物」として認識せて殺害してゆく。
そして、クライマックスではエロイーズと対峙した事で自身の肉体に魂が戻り、「物」から「人」へと認識して、自らが殺人を犯したのを悟って死んでゆく。; 反転終了
そこをどうしてもっと具体的に描かないのかと言えば、ホラー色が強くなり本作の伝えたいことが、ボヤケてしまうので、敢えてそうしたと考えるしかない。
伝えたい事とは、現在ファッションと若者の街として存在しているソーホーという街の暗い歴史だ。
その視点に立てばサンディとはソーホーの闇に堕ちて行った多くの女性達を象徴しているキャラクターという事になる。
そしてそれを、60年代に憧れているだけの主体性が無い未熟な女性であるエロイーズと対比させて、主体性を持つ彼女の成長としてのドラマをやっている。
それが本作。
反転開始;さて、そうなると未熟なのにも関わらず、抜けられない罠で売春をさせられたサンディに降り掛かる感情とは、まさに「絶望」でしかなく、それでは男共を殺すよな。と納得するしかない展開と「(サンディ)あの女を殺してくれ」と頼む男共の亡霊に対してエロイーズが断固拒否 -- エロイーズはサンディの記憶(感情)を体験しているので、それは当然の行為である -- をしたことで、サンディを、そして卑劣な罠に嵌って売春婦として堕ちていった女性たちの魂を「絶望」から救う。
そして、サンディの魂がミス・コリンズの肉体に戻る。目の無かった男共から目が表れるのはそうゆう意味だ。;反転終了
そこで、まあ、の部分に戻るが。エドガー・ライト監督作は毎回に物語の運びが上手いので、いつも水準以上の満足感はあるが、自分としてはエロイーズとサンディとソーホーの三つが上手く嚙み合っていない感じがする。観た後の感想が、青春ホラーと男共に搾取された女性達の悲劇とソーホーの闇の三者に分かれてしまうのはそんなところだろう。
何かこう、理屈が先に立って言葉に出来ない怒りとか悲しみとかが感じられない。
最近、エメラルド・フェネル監督『プロミシング・ヤング・ウーマン』の怒りと悲しみを体験した後ではどーしてもそう感じてしまう。
まぁ、ケチをつけていると思っているなら、そう思っても結構です。
終わり。
最後に本作はライト監督らしく様々な要素が詰まっているが、その辺は自分が購読しているてらどんさんとレクさんのブログにより詳しく書かれていますのでリンクを貼っておきます。
劇場で鑑賞。