ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]


注:今回はスタニスワフ・レムが書いた『ソラリス』(または『ソラリスの陽のもとに』)を原作、タルコフスキーが撮った『惑星ソラリス』を映画と表記します。
ポーランドSF作家スタニスワフ・レムが書いた原作はSFファンのみならず文学ファンに広く知られている文学であり、それを映画化したソ連(現:ロシア)映画監督アンドレイ・タルコフスキーの映画も名画として認められている作品である。
もちろん、様々な作品にも影響を与えていて、原作だと誰もが一番に浮かぶのが、これも映画化されたマイケル・クライトンの『スフィア』(1998)だろう。

クライトン自身はしらばっくれてはいるが、主人公がソラリスと同じ心理学者なので読んでいないとは言わせないぞ!
あと、映画は意外とは思われるかもしれないが黒澤明が撮った『夢』(1990)だ。

ココでは「こんな夢を見た」を題材にファンタジーな描写が連作になっているが、モチーフとなっているのは「生と死」であり、これは映画版とかぶるからだ。
えっ?ソダーバーグのヤツはどうだって。それはラストに語る。
内容は原作も映画もほぼ同じだ、人類が発見したソラリスという惑星は表面を覆う海らしきものがどうやら巨大な生命である事に結論づけられたが、それからは手詰まり状態で、主人公はそんなソラリスの研究ステーションに到着すると4人の研究員のうち一人は死亡、残りの3人もどこか可怪しい。そして、明らかに3人以外の人物の気配もある。怪しげな状況の中で主人公の前に現れたのは亡くなった妻だった。どうやらソラリスの海は人間の存在を知って何らかのアプローチをかけていらしいのだが、それが善意なのかそれとも悪意なのか判断できない……な流れ。
原作と映画が違うのはラストあたりだ。
原作ではソラリスによって作られた(らしい)存在を消す方法(実験)を知った主人公の妻(らしき)が自分の存在が彼を苦しめているのを察して自らそれを望んで姿を消してゆく。主人公は妻にはもう会えないだろと考えながらもソラリスに残る気持になる。
これが、映画だと方法もほぼ同じで、結果も妻は消えるが、違うのは何とソラリスの海に島が現れて、そこに主人公の父親が現れて、その人に赦しを乞うような終わり方をする。
この両者の違いは何なんのか?
そこで、原作を映画はどう読み取ったかがポイントとなる。
まず、レムが書いた原作では不可知論的アプローチで物語が展開する。
不可知論とはイギリスの生物学者トーマス・ヘンリー・ハクスリーが唱えた考えで、ざっくりまとめると「経験や現象の存在は認めるとして、それを起こす根本となる本質は我々の知見では知りようが無い」立場を表明していて、万有引力を発見したニュートンの「私は仮説を作らない」と唱えた考えとほぼ同じ。
だから、レムの原作では「ソラリス学」なる架空設定の解説をかなり重点的に書いている。
いるが、原作及びレムの作品の魅力に「群盲牛を撫でる」かのごとく、決して理解できない存在のそんな“肌ざわり”を書くのだ。特にコノ原作ではソラリスによって完璧に作られた主人公の妻が彼のために思い悩みそして自ら消滅を選ぶ件は霊魂とか精神とかの存在を否定する唯物論的存在なのにそこを情感あふれる描写をする。
これが、レムの宇宙SFはそれまで欧米SFの「知的レベルが同じなら互いを認識できる」という、何となく形成されていた教義をできうる限りロジック使ってそれを否定したところがSFのみならず文学好きに魅力ととられた。
そんなレムの原作を映画のタルコフスキーはどう解釈したか?
早い話が、完全にスピリチュアルにした。
映画では原作がかなりの量を割いていたソラリス学の部分を完全にカットして主人公の感情のみに注視した。
まぁ、これだけなら映画的描写としては当然なのだが、それでは映画ラストの島の意味が通らない。
それでは、どこがスピリチュアルなのか?
実は映画ではSFでは珍しい表現をタルコフスキーは行っている。水気だ。
SF映画では水気は禁忌だ。コノ手の作品では宇宙のクールさを描写するのに水気は生気を連想させてしまい生々しいイメージがあるためにできうる限り排除しようとする。その究極がアノ『2001年宇宙の旅』(1968)になる。

とはいえ、SFと水気で『エイリアン』(1979)を思い出して「あれはどーなんだ?」と疑問を呈する者もいるだろうが、さっきも書いたとおり水気は生気を連想させるので、『エイリアン』は純粋なSFというよりもSFホラーなので、だからアレでよい。

そしてコノ映画も、当初の日本での評価は怪談として多くは認識されていた。筋は通るのである。
事実、タルコフスキーはココではソラリスの海を怪異として描いている。まずは未来SF的なクールで直接的イメージを出すため日本の首都高速道路を延々と流す。

そして、それと対比するかのように非直線的で複雑な海面の動きをするソラリスの海を見せる。

まるで、そこに「何か」が宿っている、と。
これが、タルコフスキーがコノ映画で表現したスピリチュアル。
スピリチュアルなので、映画には畏怖と畏敬も感じられる。
この出来に論理・ロジックの人であるレムは、非論理・イロジカルなタルコフスキーの映画を受け入れるはずはなく、最終的には物別れの形になった。
でも、どうしてタルコフスキーはこんな展開にしたのか?
ここからは個人的な妄想の類にはあるが、タルコフスキーにまつわる当時の社会状況がこうさせたのかもしれない。
映画が公開された時期のソ連は最高権力者がレオニード・ブレジネフの時代。硬直した官僚機構と情報統制が利いていた。もちろんペレストロイカ(民主化)はまだ先の話。
つまり、まだ社会主義国として盤石なので、文化的雰囲気も社会主義を賛美・肯定する社会主義リアリズムが趨勢だった。
社会主義国リアリズムとはザックリ言えば、進歩と理想を賛美として描いた芸術形式。
もっとザックリとなら、ソビエト社会主義共和国連邦の肯定と礼賛。
なので、欧米のような抽象や前衛や退廃とは真逆なので否定されるので、当然のごとくスピリチュアルもその対象に入っている。
それに、主人公も含めて映画に描かれたソラリスステーションの人々は「進歩の進捗に疲れた」設定であるのをそれを通す事で暗に示している。
これは、どうみても体制批判なので、色々と問題が起こる。
でも、SFなら当局の検閲をすり抜けることができる。
そうして、タルコフスキーはソラリスの海をスピリチュアルな存在にした。

こうして、レムのソラリスはタルコフスキーのソラリスとなった。
さて、ソダーバーグだが、正直彼はレムの原作よりもタルコフスキーの映画をより一般化させたのは間違いがない。だって、どうみても原作よりも映画寄りの解釈でしょ。特にあのラストは!
(画像はすべてIMDBより)

