えいざつき ~映画と世情と日常と~

何かの感想というよりも、それで思い出した事を書きます。映画、SFが多めです。そして、たまに妄想が暴走します。

『ダゲレオタイプの女』と「怪奇」をアレコレ考えた

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

 


『ダゲレオタイプの女』映画オリジナル予告編 

 

「あんな写真機なんてあるか!それに等身大で映すのならあれでもまだ小さいし、あったとしても焦点距離にはほど遠いし肝心な感光させる板なんてあるわけが無いだろう」と突っ込んではいけない。だって黒沢清監督だから。

 

こちらもお願いします。

eizatuki.hatenablog.com 

レヴューというよりも『ダゲレオタイプの女』で思ったことを書きます。

 

 

 『ダゲレオタイプの女』は簡単にいうと「怪奇(奇談)」映画だ。ここでいう「怪奇」は「日常に非日常が現れる」といった意味で、それに暴力が要素に加わるといわゆる「ホラー」になるわけだが、この映画では暴力があるのは2シーンだけ、しかもそれは非日常が下してはいない、だから「ホラー」にはあたらない。だから『ダゲレオタイプの女』は「怪奇」の体をしている。

 

「怪奇」の体とは何か?簡単にいうと距離や時間などソレが通じる「範囲」が決まっているだろう。いわゆるいくつかの民話や童話がそれだろうし、建物ならオバケ屋敷モノがそれかもしれない。ソレから「離れて」しまえば効力が切れるのがミソだ。

 

そうゆう意味では『リング』が画期的だったのは「範囲」がビデオテープという狭いモノにも関わらず、人から人に渡る「移動性」を導入したことが従来のホラーに新しさを与えたことは誰でも知っていることだし。それに「伝染性」を感じることができるようになったのはネットが発達した現在ならではだといえる。

 

『ダゲレオタイプの女』は黒澤監督らしく日常を非日常に変えるスイッチに階段を使っている。それが蓮實重彥の「小津と溝口の宿命的な融合」なのだろうが、感想としてはしっくりし過ぎて逆に物足りなさを感じてしまったのは確かだ。従来の黒沢監督の日常を非日常に変換していたスリリングな部分が感じ取られなかったのかもしれない。それとも他国の人が観たら日本的な「怪奇」が西洋に変換されていてスリリングに感じるのだろうか?それともやっぱり自分に教養が足りないからしっくりが楽しめずにそう感じるのか。

 

そんな事を考えてしまいました。

 

 

 

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