えいざつき ~映画と世情と日常と~

主に映画の思い出について書きますが。基本は自分の思った事をつまり妄言を書きます。

キチジローをよく見ていれば『沈黙-サイレンス-』はよく解ります

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][誤字脱字修正有]

 


映画『沈黙-サイレンス-』アメリカ版予告編 

 

スコセッシ監督渾身の力作!が『沈黙』の感想だが、正直、自分にはこの映画を受け取る感覚にはなれなかった。遠藤周作の原作はずっと前に読んだきりで忘却の彼方だし篠田正浩監督のは観ていないから。ここでは素直に自分のとまどいだけを書いておきたいと思う。

 

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ここから先はネタバレになります。映画を見ていない方にはおススメできません。

 聖職者にとって大事なのは教義を絶対に守る事だ。そうでなければ信徒を導く存在にはなれない。ロドリゴがモキチたちに踏み絵を「踏んでも良い」といえるのはモキチたちが聖職者に導かれる存在の信徒だからだ。

 

しかし、聖職者は違う。導く者は絶対に教義を守らなければならない。そうでなければ信仰そのものが破綻してしまうからだ。聖職者は俗から離れた聖なる存在であり教えを他に広める使命がある、秘跡を受けるのはそうゆう事だ。教義とは聖職者と教会、そしてさらに上の主との繋がりをあらわすからだ、それが無いと組織として成り立たなくなってしまう。例えば、あのガリレオ・ガリレイが有罪になったのは彼の地動説を認めてしまうと教義の書き換えが必要になり、主との繋がりを絶ちかねない危険性があり、それは世界中の聖職者に混乱をもたらすのが分かっているから。だから、だからロドリゴは苦悩する。そしてイノウエはそこを攻める。

 

しかし、そこで教義の「書き換え」が行われるとしたらどうなるか?それよりも教義の「書き換えが」できる事ができるのか?可能性はある。主であるイエスが許可をした。ならだ。そう、「踏みなさい」あの声だ。

 

ここでさらに妄想を多分に含んだ考えを書くと主イエスの声を聞いたその瞬間にロドリゴは聖人になったともいえる。それはずっと一緒についてきたキチジローを見ていれば分かる。ロドリゴとガルベについていたキチジローはどこかオドオドして不安気だが、ロドリゴが転んだ後の姿はまるで憑き物がとれたかの様に落ち着いた感じになっている。そこからキチジローはロドリゴに「聖なるもの」を感じているのは誰にでも分かる。だからこそ棄教したロドリゴにキチジローは赦しをもとめる。

 

そして別の視点からいうと師であったフェレイラを見てもそれは分かる。転んだ後のロドリゴに対するフェレイラの態度はやけに弱い。まるで何かに気圧されているかのようだ。ロドリゴが変わったのを感覚として感じているからだ。

 

だからこそラストは重要な意味をもつ。あの十字架をロドリゴが隠し持っていたのかどうかは詮索するする意味はない。大事なのは日本の妻がそれに気がついているが誰にもいわずに自分の胸にしまった所だ。信仰者でもない彼女もまたロドリゴに何かを「感じていた」証だ。

 

そして映画では東洋の地で一人の聖人がひっそりと息を引き取った。

 

 

ここまでなら誰でも想像はできるのだが、ここまでゆくとそれがスコセッシ監督が考えて考え抜いて得た結論なのか。それとも強烈な願いなのかが、よく分からない。『最後の誘惑』から考えると後者だと思うのだけど。

 

おそらくは公のメッセージというよりもスコセッシ監督の個人的な映画として理解するほかはない。とにかく色々とあり心が疲れる映画なのは確かだ。

 

 

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