ここでは題名を恣意的に表記します。[敬称略]
『シビルー・ウォー キャプテン・アメリカ』を観ました。
シビル・ウォー キャプテン・アメリカ : 作品情報 - 映画.com
感想は「アメリカンニューシネマかよ!」。シビル・ウォー(内戦)から予想していた展開とは大きく異なるテーマを出してきているが実はちゃんと絡んでいるのにも個人として「戸惑っている」のも確か。そして意外にも暗い内容でヒーロー物の良さを否定しかねない要素もはらんでいる。だからドラマから切り離されているアントマンやスパイダーマンがいなければ失敗作(ある意味で今回は彼らが最大の功労者)になっていたかもしれない。そして最大の見所は超人キャプテン・アメリカではなく人としてのスティーブ・ロジャーズが描かれているところだろう。そして……
はじめてヒーローが敗北する瞬間を描いているから。
「死」ではない。「敗北」だ。ヒーローにとっての死は栄光をさらに輝かせる、いわゆるカリスマから伝説の人物になるが、敗北はヒーローを頂点から叩き落すのだから。それではスーパーヒーローにとっての敗北とは何か?
それは「ヒーローの存在証明」に近い。それを捨てることが敗北だ。
それでは『シビル・ウォー』での敗北は何か?それは……
巨大な力を他人のためではなく、自分のためにつかうことだ。
それはヒーローとしての「力」を維持したままキャプテン・アメリカがスティーブ・ロジャーズになりアイアンマンがトニー・スタークになったようにその力を「自分(感情の赴くままに)のために使う」ことだろう。
キャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャーズはどうしてバッキーことウィンター・ソルジャーを助けるのか?
簡単にいえばスティーブにとってバッキーは「もう一人自分」だからだ。過去から一足飛びに現在にきてしまったスティーブは「孤独感」がハンパない。だからバッキーの「孤独感」も充分にわかっている。そこに「通じ合う」ものもある。だからバッキーを「信じる」のは「自分自身を信じる」ことにもなる。
アイアンマンことトニー・スタークについては解説するまでもないだろう。
この二人がヒーローとしての力を自分のために使うのがヒーローの敗北として描写されるのは西欧でいうノブレス・オブリュージュを捨てた事になるからだ。つまり高貴な者が敗北する瞬間でもある。
ノブレスオブリージュ - コトバンク
その背景には新自由主義の社会がノブレス・オブリュージュを「忘れてしまった」のがあるのかもしれない。
そしてそれが観客が黒幕のそういった策を用いたのを観ている者が怒りもせず当然として受け入れられた。
それが今回の映画がアメリカでの高評価なのかもしれない。つまり、このシビル・ウォー(内戦)は「力のある者同士の戦い」ではなく「力のある者と力の無い者」が二分されている意味での内戦という事になる。
そして、その二分は埋まることは無いのかもしれないかもしれない「絶望」感がハンパない。
そうゆう視点からいえばこれは『ウィンター・ソルジャー』と同じ寓意含めの政治的な映画だ。しかし次回作をどうやって動かすのか想像もつかない。いや、それよりも……
ヒーロー映画でそれをやるか普通!