えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

『ソードアート・オンライン』の主人公キリトはどうして素敵なのかをオジサンに向けて書く

ここでは題名と名称を恣意的に表記します[敬称略][加筆修正有]

 


「劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-」PV 第2弾

 

最初にお断りしておくと『ソードアート・オンライン』(以下、『SOA』)はテレビアニメだけで原作は読んだことがない、いわゆるニワカである。これを踏まえて、あえて『劇場版SAO』と『SAO』について自分が感じている魅力を書きます。

 

『劇場版SAO』は今までのVR(仮想現実)ではなくAR(拡張現実)を題材にすることで日常を非日常として表現してなどの工夫をしてファンだけではなく一見さんにもそれなりに楽しめる印象だ。少なくとも何かのRPGゲームをやった人にはそれなりに楽しめそうではある。

 

そしてファンにとってこのアイディアは『SAO』の原点を思い起こさせる仕掛けにもなっている。

 

そしてそれは自分が『SAO』シリーズに感じている魅力でもある。

 

『SAO』シリーズの本質が任侠モノである。という事がである。

  

ここからはネタバレになります。観ていない方にはおススメできません。

 

私の世界の法則をも超えるものを見る事ができた。

                 テレビアニメ『ソード・アートオンライン』14話より

  

キリトはあのSAO事件の勇者であり生き残りだ。必然的に拾ったのは事件で生還できなかった4000人の「想い」でもある。これは『SAO』での重要な要素になっていた。

 

ユニークなのはキリトはSAO事件にあったのにもかかわらず、この事件の首謀者である茅場晶彦に憎しみを抱いていない。それどころか事件で亡くなったディアべルやサチなどの「想い」を一人で背負い込んでいるところだ。本来なら茅場のせいにしてもよいはずなのに。もちろんキリトがそうゆう思考をするのは彼がヘビーゲーマーだからなのだが、その思考は明らかに義侠心に通している。

 

義侠心の真ん中にあるのは正義ではなく「」だ。どう違うのかはざっくりというと正義は大勢を束ねるために倫理または公正で構成する社会秩序を守るためだが、「仁」はそれよりも、もっと小さくて困っている人苦しんでいる人をそれこそ体を張って助けることだ。いわゆる博愛、平等の人道主義誕生以前から存在したモノでもある。そして、ここでの義侠心とは特定の階層のみが通じ合うルールでありけじめだ。ヤクザ映画ではお馴染みのモノでもある。

 

もちろんここでいう義侠心はヤクザ的なそれではなく、SAO内のトリセツとゲーマーの筋を通す行動から現れたモノだ。ゲーマーでしか通じ得ない「何か」でもある。そして『SAO』での悪役はゲーマーの義侠心をもっていない者がその役を担っている。意外でもありまたは当然ともいえるが、キリトが倒すのはそんな奴らだ。

 

そしてSAO事件の首謀者である茅場晶彦もゲーマーである。彼は不思議なことにゲーマーの筋は通している。だからキリトはあれだけな目にあっても彼に何故か義侠を感じて憎みきれないのかもしれない。

 

本題に戻ると最初の『SAO』での要素が『劇場版SAO』ではARのオーグマーで改めて提示されている。ドラマ的には誰もが共感できるよう主要キャラのアスナとあるキャラに仕掛けがされてはいるが、キリトが二人のためにしてやることが結果としてあの4000人の「想い」をどうするのかがこの映画のテーマだと考える。もっとも『劇場版SAO』では流れは示しても答えは示さない。これは当然だろう、それをしてしまうとキリトという一人の侠客の物語は終わってしまうのだから。

 

そしてキリトの物語の終わりは茅場晶彦の「可能性」の終わりも意味する。だから、この物語はおそらくは終わらないだろう。

 

本来なら孤独な戦いなのだが、幸い(?)キリトには嫁もいるし子供いる。そして彼の義侠心に引かれて彼の周りには仲間がいる。いわゆる「キリト一家」なるものができている。女性が多いのは、まぁ、このジャンルとしてのお愛嬌なのだけれども。

 

 

  

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