ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][加筆修正有]
『パワーレンジャー』は冒頭からはじまり採掘場での5人が出会う流れは素晴らしい。監督のディーン・イズラライトのみなぎる才気が感じられる。この監督の名は覚えておくべきだ。
とはいえ、青春と戦隊ヒーローを融合させる展開はドラマ面ではうまくいっているが、そのために見せ場を全部後半に持っていったためにアクションはイマイチだ。例えば、ただ格好良く見せるためだけのジョン・ウー的、またはマイケル・ベイ的なスローモーションを同じシュチエーションとほぼ同じ構図で撮ったり、クライマックスでいよいよアイツが登場するところは『パシフィック・リム』と比べると前後の演出とタメの足り無さもあり、ケレン味不足も確か。
ただ、自分としての興味はそこだけではなく。青春と戦隊ヒーローを合わせた結果。偶然なのか意図なのか、ひょっこりと現れたのは「正義とは何か?」だった。このアリストテレス的な素朴さが最近のヒーローモノにはない魅力を感じた。
ここでは映画に描かれた正義について自分の考えを書いてみたいと思います。
こちらもお願いします。
ここから先はネタバレになります。観ていない方にはおススメできません。
このような意味での正義は、完全な徳(テレイア・アレテー)にほかならない。……
……これに対して、徳の一つとしての「正義」にほかならない。
注:徳のひとつとしての 部分は濁点
ゾードンもアルファ5も最初はどうしてメダルがあの5人の若造を選んだのかが分からない。しかし、観ている人には直感で分かる。
ジェイソン(レッド)は矜持を持っている。それは冒頭の騒ぎの責任を誰にもなすりつけづにひとりで引き受けたことと、ビリーを助けたところからも分かる。
キンバリー(ピンク)は羞恥を持っている。それはかつての友達との未練を断ち切るために髪を切り、ジェイソンに自分の狡さを告白するところからも分かる。
ビリー(ブルー)は勇敢を持っている。リタに殺されそうになる時に自分はその脅しには屈しないが、ザックが手にかかる時に彼を助けるためにしたことからも分かる。
トリニー(イエロー)は実直をもっている。セクシャルマイノリティを自覚しつつ、それで孤独に追いやられることも分かっているのも関わらずそれを隠さない。
ザック(ブラック)は慈愛を持っている。それは一緒に住む病弱な母を鬱陶しく感じず自分の身代わりとなったビリーを「俺でもそうした」といったところからも分かる。
5人はそうしたすぐれた「徳」をそれぞれに持っている。しかし、あくまでもそれぞれであり、「正義」はその「徳」をすべてもっていなければならない。だからこその身体と心を一つにしなければならない。そのための生身(?)での特訓であり、心が一つになってこその "IT'S MORPHIN TIME” だ。つまり「正義」だ。
正義に対する不正義であるリタは説明しなくてもよいだろう。クリスタルを奪う、という目的はあるものの描写として金を集めるところから察せられるように不正義とはそれを独り占めにする「強欲」だ。
だから、正義のパワーレンジャーはその不正義を見逃す訳にはいかない。「クソな街」だが救う。正義とは公正で無ければならないから。 "justice" とは "just" でもあるから。
『パワーレンジャー』は「正義とは何か?」を弁舌ではなく映画と言う "motion" で魅せてくれる。