ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][修正有]
ここでは『GODZILLA 怪獣惑星』の感想ではなく後二作ある、このシリーズの終わり方を予想してみたいと思います。何故ならこれがそのままこの映画の脚本を書いた虚淵玄(うろぶち げん)の特徴を書くことに繋がるからです。
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ここからはネタバレになります。観ていない方にはおススメできません。
ドラマとは非合理の快楽だ。葛藤を描く際に結末を合理的に描いてしまうと「ふーん、そう」で片づけられてしまい感動などできない。かつてミステリーやSFがエンタメで格下だと言われていた(誤解されいてた)のは結末を合理的に描いているとされていたからだ。だから、葛藤の結末は多くの皆が納得する出来る限りの非合理であった方が良いにきまっている。一言でいうと感動だ。
そして、非合理の描写の道具として使われるのは愛、友情、連帯などだが、虚淵玄がよく使うのは自由意志だ。
『怪獣惑星』で主人公であるハルオがゴジラと戦う理由は「地球に住む」ためではなく「人としての誇りを取り戻す」のためだ。ゴジラを倒さなければ人は前に進めない、だから倒す!虚淵玄脚本では『怪獣惑星』に限らず、自由意志=人。の方式で成っている。『魔法少女まどか☆マギカ』も『ASSPSYCHO-P』も『翠星のガルガンティア』も『楽園追放 -Expelled from Paradise-』も、それらは『怪獣惑星』とドラマの根本は変わらない。鹿目まどか、狡噛慎也、レド、アンジェラの行動規範は自由意志守るために動く。ハルオ・サカキと同じタイプだ。
「自由意志こそが人が捨ててはいけないものと。捨ててしまえば、それはもう人ではない」と主張している。それが虚淵イズムだ。
『怪獣惑星』の前半はそれに ₋₋ 何しろ船内の閉塞感あふれる描写は自由意志を削りにきている -- 費やしてるといってもよい。そして、あと2作あるこのシリーズの根本を貫くのだろう。それから考えるにこれらに対する敵は自由意志を抑圧するモノなる。つまりシステムだ。魔女、シビラ、クーゲル、ディーヴァがそれになる。だとしたらハルオが最終的に倒すのはゴジラではない。倒すのは何かのシステムのはずだ。
そして、当然ながら察するのはキーパーソンはエクシフ人のメトフィエスなのは、すぐに想像できる。彼が今回の『まどか』におけるキュゥべえであり『サイコパス』における槙島聖護(CV:櫻井孝宏)役割なのは間違いない。おそらく彼の化けの皮、または真意は次作であかされるのだろう。
つまり、人とあのゴジラとの共存の可能性もあるかもしれないことだ。

アニメーション映画『GODZILLA 怪獣惑星』オリジナルサウンドトラック
- アーティスト: 服部?之
- 出版社/メーカー: 東宝
- 発売日: 2017/11/15
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