ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
ある病院にいる。尋ねてくるのは孫だけの孤独な老人。そこを担当している看護士がある日、その老人がかつて映画のために書いていた脚本を見つけて内容を聞かせてくださいと頼む。快く承知した老人が訥々と語る物語は、かつて映画がまだ盛んだった頃。撮影所で監督を目指す青年助監督が、大好きで観続けていた映画から飛び出してきたモノクロのお姫様との切ない恋物語だった。
『今夜、ロマンス劇場で』は一言でいえば「ズルい」映画だ。映画がまだまだ娯楽の中心だった頃を舞台にしていて町の目立つところに映画館があり、宣伝のための看板が目抜き通りに置かれていた時代だからだ。自分は辛うじてその残滓、老朽化で駐車場になった映画館跡や何も貼られずにただ朽ちていった看板を見た思い出があるので、「上手いなぁ」よりも、ある一定の人々の琴線に触れるのが分かるから「ズルいなぁ」の感情になる。
「ズルい」のは作品構造にもある。老人が昔に書いた脚本という展開になっているので、リアリティが緩めになっている。これが「本当の事をありのままに書いているのか」それとも「映画のための多少の脚色を施している」の見極めができない。だから美雪の衣装が場面ごとに変わってもリアリティでは文句が出しにくい雰囲気を作り出している。
名画からの引用は誰でも気がつくところだ。映画への愛は分かる。だから、その終わり方のノスタルジック(郷愁)で例えば『ニュー・シネマ・パラダイス』に近いものになるのだろうな。と予想していたら美雪の秘密が告白されてからの主人公の牧野健司がある決断をしてからノスタルジックでファンタジックなラブストーリーから別な展開になるのだ。急にSF映画になるのだ。
ここでいうSF映画とはハードSFでもスペースオペラでも近未来でもなく藤子・F・不二雄が描いてきた「S(すこし)F(ふしぎ)」のSFだ。藤子・F がお手本にした作家のうちの一人であるジャック・フィニイの作品にグッと近くなってゆくのだ。具体的な作品名でいえば、この映画は『ゲイルズバーグの春を愛す』のような展開になってゆく。
ネタバレを避けつつ『ゲイルズバーグの春を愛す』の作品としてのキモだけをいうなら、「無慈悲にもやってくる近代化・現代に抵抗する、過去」だ。この構図がこの映画にも当てはまってくる、美雪が「忘れ去られた映画、そして映画と共にあったに日常」そのものの象徴なら、後半の健司と美雪の恋は「忘れ去られようとしている過去が現在に抵抗する」構図になるのだ。急に郷愁が現代に牙を向いてくる展開になるので、これには驚いた。
だから、あのラストシーンは恋愛映画の終わり方ではなく、「忘れ去られた映画とかつて映画と共にあった日常」に対するオマージュでありリスペクトでもある。
と、絶賛モードで書いてはきたけれども、諸手を上げて傑作!とまでには行かない。過剰ではないが説明台詞のオンパレードはあるし、ことさら観客を感情を盛り上げようとするあまり楽曲を使いすぎる問題など、テレビ局主導にありがちな宿痾から、この映画も抜け出てはいない。特に楽曲に関しては、まんべんなく使うよりも、「ここぞ!」というところに使ってそのメロディを印象付ける演出をすれば、その楽曲と共にこの映画のすべてを観客に「素敵な記憶」として永遠に憶えてもらえるかも知れなかったのに……。
とはいえ、名画なのではなく「忘れ去られた映画」として観るなら、こちらの方が相応しいかな。とも考えたりもするので、そうゆう意味にでも『今夜、ロマンス劇場で』は「ズルい」映画だ。