ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
心臓外科医のスティーブンは美しい妻アナと娘息子に囲まれて幸せな日々をおくっていた。しかし、ある日。手術で父をなくしてしまった少年マーティンを家に向かい入れたことときっかけに息子ボブと娘キムは原因不明の症状で動けなくなってしまう。スティーブとアナはそのその原因はマーティンにあると確信していたが、有効な手立ては打てず、ある決断をすることに……。
アウトラインを説明するにはちょっとややこしいので、今回は自分が考えていることを3段階にして、最後に感想を書きます。
〇 設定
スティーブン家は厳格なクリスチャンだ。娘のキムは新讃美歌を歌っているし、バーベキューは血がしたたり落ちそうな肉では無くて魚だし、念を押すかのようにスティーブとアナのセックスは「裸体で欲情しない」セックスというより子作り近いからだ。
マーティン少年はどうみても尋常では無いので何らかを暗示しているのは難しい。しかし、パスタ(小麦)をモリモリと喰っているところを強調しているところからどうやら穀物霊(動物霊)らしいのは分かる。マーティン演じているバリー・コーガンの面構えから察するに狼だ。狼なら鶏も食べるだろうし、ジャガイモも好物だ。
〇 何が起こっているのか?
マーティンが穀物霊の暗示なら、スティーブンがマーティンの父にしたことは神殺しの他にはない。マーティンの父の心臓を止めていることで、文字通り完全に殺しているし、マーティンの母がスティーブンの指をペロペロ舐めたり身体を差し出してセックスをもとめるのは彼女がスティーブンを神殺しで新たな神になった者への服従のポーズでもある。それはスティーブンが新たな神になった証明でもある。
神になったスティーブンは供物、つまり生贄を得なければいけない。そうしなければ信仰は成り立たないし、信仰が無ければ土地の恵みすなわち家族そのものが無くなってしまうからだ。だからスティーブンは家族のうちの誰かを生贄を捧げなければならない。マーティンが言った正義や罰とは父を殺された復讐ではなく、新たな神になったのにもかかわらずスティーブンが生贄を選ぶという責務を果たさないことであり、罰とは責務を果たさないことからくる、すべてを失うという危機だ。それはスティーブンではなくマーティンに媚たキムがその間違いに気がついて家から逃げ出そうとしたところからも分かる。
つまり、厳格なクリスチャンの家庭だったところに原始信仰の神が割り込んできたところからくる悲劇(または喜劇)を描いたドラマがこれだ。
〇 結果としてどうなったのか?
しかし、肝心なことはスティーブンは酔って手術をしたせいでマーティンの父を殺しているので意図として神殺しをした訳ではない。つまり偶然だ。
そして生贄の選び方も目隠しグルグルロシアンルーレットなので、これもまた偶然に頼っている。そこから生まれた結果がクリスチャンの神でも原始信仰の神でも無い、まったく別の「何か」らしいのだが、それがプロテスタントの共通理解である万人祭司 なのか、それとも「あらゆる神からの自立」なのかは分からない。けれども、キムがマーティンに対してこれ見よがしにポテトを食べているところからマーティンの想定した状態になっていないのは察せられる。「観客の解釈に委ねる」なのだろう。
〇 感想
カンヌで脚本賞を受賞したのは分かるけど凝り過ぎだ!観終わって( ゚д゚)ですよ。
映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』予告編
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