ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
壮絶なバトルの末、宇宙に旅立ったソー(クリス・ヘムズワース)は、すっかり戦いから遠ざかっていた。ある日、神殺しをもくろむ強敵ゴア(クリスチャン・ベイル)が出現し、ソーと新たに王となったヴァルキリー(テッサ・トンプソン)が応戦するものの、ゴアの前に全く歯が立たなかった。そこへマイティ・ソーのコスチュームをまとったソーの元恋人ジェーン(ナタリー・ポートマン)が現れ、ソーとヴァルキリーに協力する。
シネマトゥデイより引用
今回はネタバレスレスレの解説モード
注意:今回は核心に迫るネタバレは避けていますが、かなりギリギリの解説をしているので純粋に楽しみたい方には読まないことをお勧めします。
いや、タイカだったね。
タイカってのは、どんな時にもお笑いを入れずにはいられないところかな。
でも、前作『バトルロワイヤル』に比べて今回はちょっと一本調子だったかな?それと、やはりロキの不在が今回は瑕疵になっている気がする。
とはいえ、今回のドラマは結構ぶっ飛んでいた。何せ……
神様はクソ野郎!
信仰は無駄の無駄!
そんな神様なら捨てちゃえば!
なのだから。
まぁ、アンチキリストなの。
まずはオープニングから早々「お前等は神と崇めて信仰しているが、神はお前らなんぞ知らんがな」なメッセージを突き付けてくる。
追加で、ソーはソーでやらかして信仰の象徴である神殿を破壊してしまうし、その腹いせ(?)に司祭様方々から山羊をプレゼントされちまう。新約聖書のマタイ25章31-46節(マタイ福音書)によると羊は信仰者で山羊は非信仰者なので、露骨。
さらにとどめは、〇ウ〇への反逆。
もう、どこからみてもアンチキリストのイメージに満ちている。
でも、人は(ここでは神だけど)どうして?神を信仰するかと言えば、「世の理不尽に耐えられないない」から。その苦しみを何とかしたいがために神を信仰する。
天変地異、飢饉、この世に様々な理不尽があるけども、本作で描かれた理不尽は「愛する者に死なれること」として描かれる。だから本作のソーとラスボスは対象として存在になっている。同じ立場。
それでは、キリストの信仰者でない者が、神にすがろうとせずに、その苦しみからどのように克服するのか?本作ではそこに『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のスター・ロードことピーター・クイルが答えをだしている。予告にもそのセリフはあるので、それをそのまま貼る。
クイルがソーに語ったこのセリフ、実はヒッピーの思想そのもの。
ヒッピーとは、1960年代後半にアメリカに登場した、既成社会の伝統、制度等と、それ以前の保守的・男性優位の価値観を否定するカウンターカルチャー。
そのヒッピーの源流には1950年代のアメリカに起こった運動で抑圧的で非人間的な機能をもつ社会体制と、そこに安住しようとする中産階級的な保守の考えに対抗する運動で原始的なコミュニティで生活する、いわゆるビートニク運動があり、さらにその源流にはフランスの哲学者であり小説家でもあるジャン=ポール・サルトルが提唱した実存主義がある。
まぁ、ざっくりとまとめてしまえば、キリスト信仰者=保守。なので、ヒッピーはそれに対するカウンターであるのは容易に分かる。
本作はそのイメージに満ちている。
ちなみに、どことなくサイケぽい。
でも、どうしてこんなドラマになったのか?自分が思うに、やはり現在のアメリカ社会への異議申し立てが込められていると考えるのが筋だ。
昨今のアメリカ社会の保守派のよりどころが、宗教右派の考えであるのは今や誰もが知っている。銃規制反対、従来の性規範の遵守LGBTへの反発、白人至上主義者社会等など、改革の障害となっているのが宗教右派が保守を支援しているから。それに対する異議申し立て、というよりも強い批判が込められている。そうでなければ、本作のあるキャラがLGBTとして設定されるはずはないからだ。
つまり、本作は超ラディカルで超攻撃的。
なのに、表向きはバカ映画。
いいね👍そうゆうの嫌いじゃない。
むしろ大好き。
個人的には、色々と言いたい気持はあるのだけど、OK!
でもね……
自分は予告とオープニングで本作のドラマが分かってしまったので純粋に楽しめなかった。というよりも楽しみそこねた。
ロキがいればねぇ……(リフレイン)
あと、このドラマの落しどころなら、あの物語とラストは当然だけども、それに持ってゆくためのクライマックスがちと強引かな、もう少し練り込めなかったのかな?かな?
そんな感じ。
劇場で鑑賞。