ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
1960年代末のベトナム。指令部に呼び出されたウィラード大尉(マーティン・シーン)は、ジャングルの奥地に失踪し、現地の人々の王のごとく君臨していると噂されるカーツ大佐(マーロン・ブランド)の暗殺指令を受ける。
シネマトゥデイより引用
今回はネタバレアリのダラダラグチグチ批判モード
この間、BSで『地獄の黙示録 特別完全版』(以下、完全版と呼称)が放送されていたのだが、自分は『劇場公開版』(以下、劇場版と呼称)と『ファイナルカット』(以下、ファイナルと呼称)は観ていたのだが、完全版はまだだったので観てみたら。
まぁ面白くない。
おもろないな……
ちなみに自分のバージョン別評価は、劇場版>ファイナル>完全版になっている。
でも、ロジャー・イーバートはこのバージョンもほめていたな。
さらにちなみに、完全版とは劇場版148分にプレイメイトとの再会とフランス人農園との邂逅のシーンが追加されている。尺は202分。
さらにちなみに。ファイルではプレイメイトと各シーンからカットしての尺183分。
つまり、完全版が一番長いのだが、それでも退屈しなかったのは流石と言うべき。
でも、おもろないけど。
実は自分は、劇場版が『闇の奥』を基にしたのは前もって知ってはいたけども、それを見るかぎり、どこにその影響があるのかが分からなくて「コッポラ、お前、ホラーが使いたかっただけじゃないの?」とか感じていたのだが、完全版を観てしまうと、これがコッポラが当初に構想していたイメージなのだというのは理解できた、そしてコンラッドの『闇の奥』を使っているのならやはりコレが道理なのは察することはできる。
コンラッドの『闇の奥』は後半は不可解な展開になるし自分には退屈なのだが、前半は舞台となるコンゴの紀行小説となっている。
のだが、さすがに20世後半(劇場版公開当時)にソレをそのままやるわけにはいかないので、戦争下ベトナムの混乱を描きつつシュールな展開にもっていたのだろう。
そして、『闇の奥』と作中に流れるワーグナーの曲『ワルキューレの騎行』から北欧神話の神々の戦いラグナロクをベースにしているのは間違いはないが、それとは別に劇場版から薄っすらと感じていたこと……完全版には全体的に祭司殺しを書いたジェームス・フレイザーの『金枝篇』が隠し味として織り込まれているのを再確認した。だって劇場版でカーツが読んでいた本がズバリとそれを示しているし……
フレイザーの『金枝篇』をかいつまんで説明すると、イタリア中部アリキリアの町から離れた山麓のネミ湖畔にある小さな森の祭司として認められるのは挑戦者が前任者に戦いを挑んで勝つ。そうやって挑戦者は森の新たなる祭司となる。という伝説・言い伝えがあってフレイザーはそれに強い興味をもった。
祭司を殺す。彼が文献が無いこの話の特異性に着目して、それを具象化するために各地の伝承・言い伝えを集めて自分なりに精査して結論付けたのは「祭司とは森の神の化身である」ことと、「祭司の力が弱まると森の神の力も弱まり、森そのものの存亡にかかわり」、そこから「力を失いつつある古い祭司こと古い神を殺して、その殺した者が新たなる祭司になる事で森を蘇がえさせるため」の、儀礼なのだと看破した。「それはキリスト教どころかギリシャ・ローマのとかの世界以前の原始宗教のような何かが存在していたらしい」ことと、さらにそこからの洞察(というよりも想像)を大きくして、そこから神殺しの概念を提示して、それが一地方だけでなく、全世界の宗教以前にあった光景なのだと臭わせる。
そうしたフレイザーの主張は現在では学問としては認められていないが、彼は全ての文化に共通してみられる要素、パターン、特徴、習慣を指す学問者間の論争ヒューマン・ユニバーサルのはじまりであるのは確かだろう。 もっともヒューマン・ユニバーサルは反対者から「空っぽの普遍性」とも言われて批判もされているのだけども。
劇場版は、そんな神殺しを印象づけるために作中のところどころに原始と神と、それからの祭祀のイメージを散りばめて印象づけてゆく。
でもまぁ、そんなことはどうでもいい。
同じ解説はオレよりもエライ人がやってるはずだしな立花隆とか。
問題はどうして本作でそれをやったのか?
だって、舞台はベトナム戦争だぜコレ。
当初、コレを撮るはずだったジョージ・ルーカスが構想していたのはフェイクドキュメンタリーだったのに対してコッポラがやったのはズバリ「神話」。見たまんま。
おそらく制作時に、コッポラの漫然としたイメージには戦争という事変を遺産に見立てて、ソレをラグナロクなどの神話と結びつけて戦争そのものを語ろうとしたと思うのだけども、劇場版ではそれはまだモヤっとしたイメージで、かつ、ドキュメンタリー映画『ハート・オブ・ダークネス』からわかる現場の混乱した状況を何とかまとめてパッケージにして劇場版で公開はしたが、その後の1990年の湾岸戦争、2003年からのイラク戦争で、「俺がやりたかったのはコレだったんだ!」と後だしジャンケンなイメージが固まってこの完全版を作り直したのだろうが、劇場版にあった感性的な若さからくる荒々しさが途絶えて、そこから偶然にも染み出していた何か弾けそうなスリルがスッポリと抜け落ちている。
思い出補正かもしれないので、劇場版を観直したけど、この感情は変わらなかった。
まとめちゃえば、知的なことは確かだけども知が勝ちすぎてエモくない。
ぶっちゃけ、感心はするけども感動はしないのが本作。
まるで、自分が書いた小説の解説を自身が書いている間抜けさ。
でも、それを後で自覚していたからこそファイルをやったのだろうな。
第一、コッポラはインテリから過大評価されてるんじゃないかと自分は思う。
1960年代に先進国に大きなムーブメントとなった学生運動、スチューデント・パワーの巨大な波に乗って若者枠で映画の世界でも持ち上げられた感がするし、「ベルイマンやゴダールやアントニオー二のようなインテリ等を刺激する作家を我が国でも」なアメリカインテリ等の渇望を満たす存在として彼とその初期作品は評価されて……というよりも間違った評価をされているところがある。
本質は、濃い映画オタクなのに。
しかし、それが本作を伝説に押し上げたのも確か。
私ら映画オタクが、キャラとビジュアルに痺れただけなのに、『スター・ウォーズ』や『ブレードランナー』を持ち上げて伝説にしたのとまったく同じ。
事実、『スター・ウォーズ』も『ブレードランナー』も、これと同様に後から別バージョンが作られているし。
だから、本作は映画オタクだけじゃあなく、インテリに愛された作品ともいえる。
今回の人称が支離滅裂統一されていないのは許せ!
CATVで鑑賞。