ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
東野圭吾のミステリー小説の実写映画化。温泉地で初老の老人が硫化水素で死亡した現場を調査していた地球化学専門家・青江修介はそこに居合わせた捜査を担当する刑事・中岡と謎の女性・羽原円華と出会う。中岡は殺人事件と確信していたが青江は専門家の見地からそれを否定した。数日後、別の地方都市で硫化水素中毒により死亡する事故が起き、そこに赴いた青江の目の前に再び円華が現れる。自身の見地に揺らいでいた青江に対して円華は信じられない現象を体験させるのだが……。
この作品のミステリーとドラマのキモは架空の能力ラプラスの悪魔だが、架空といえどもSF的な飛躍はない。作中でも主張していたとおりこの能力は日常の延長線上にある。
例えば通学や通勤などで移動する際、目的地までの時間はバスなら何分、自転車なら何分、徒歩なら何分とイメージできるし、徒歩で途中のバス停まで何分、バス停から目的地まで何分、など幾度となく乗り換えても自分がそこにいる時間と位置をイメージできる。それと変わりがない。
また天気の知識をもっていると上空の雲の動きと、吹いている風の速さと肌に触れる空気の温度で数時間後の天気をイメージできる。円華と別の人物がもっている能力はそれらをより細かく洗練かつ鮮明させた能力だ。膨大なデータを瞬時に処理をしてイメージできる設定はバリー・レヴィンソン監督『レインマン』で知られた自閉症スペクトラムが発揮するといわれるサヴァンやヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン 著『脳の中の幽霊』のエピソードをヒントにしているのだろう。
そうしたイメージを数式で記述したのが微分方程式だ。つまり作品で言っていたピエール=シモン・ラプラスが「初期値が分かれば未来も予測できる」 と主張していたラプラスの悪魔は微分方程式を根拠にした決定論だ。
もっとも現在では量子力学の不確定性原理でそれは否定されてはいるが、それはあくまでも量子力学のプランク定数が影響を及ぼす範囲内であって、影響を及ぼさないマクロな現象なら現在でもある程度は通用する。
そして、円華が青江に見せた硫化水素の謎解きは微分方程式の一つである流体力学の粘度が大きく各層が混じりあわない層流(そうりゅう)による振る舞いをイメージしたときにあった条件が実際にそろったから再現できたわけだ。つまり青江の地球科学専門という設定から考察できるイメージとは別の学問である流体力学のイメージなので青江は確信に迫れなかった。簡単にいうと観客(読者)に対する「引っ掛け」であり「目くらまし」だ。
先にある程度は通用する。と書いたが、マクロでも微分方程式が通用しない現象がある。流体力学による乱流だ。マーク・ウェブ監督『gifted/ギフテッド』でも描かれていたナビエ‐ストークス方程式の正しさは現在でも証明されていない。『ラプラスの魔女』で描かれるドラマは難しい乱流のイメージを別の人物では「復讐ゆえの怒り」の表現 -- 歪んだ美的感覚でそうなってしまった者としての怒り -- として、円華にとっては「過去のトラウマ」を克服 -- 竜巻の対比 -- するために乱流をイメージすることでドラマとしてのクライマックスにもってきている。
さらに付け加えると、この事件の元凶である人物が事を犯した動機として狂った美的感覚を告白しているのに対して別の人物が吐露する「……人間は原始だ。一つ一つは凡庸無自覚にいきているだけだとしても、集合体となった時、劇的な物理法則を実現してゆく……」の一見ピンとこない台詞は統計学・確率論に裏打ちされた哲学でもあり、これも映画化された『ナミヤ雑貨店の奇蹟』でも同様にそれを披露していた著者である東野圭吾が強く感じている世界観・人生観なのだろう。
と、ここまで長々と解説して薄々は気がついただろうが、この作品の欠点は、設定が複雑すぎて本来なら内面が描写できるスリラーで展開すべきなのを内面描写が難しい本格ミステリーとして無理矢理に展開しているため肝心のリアリティが緩くなって推理部分に納得できなくなっているところだ。しかもメッセージもテーマも台詞で一気に長々と語られているのもツライ。
そして、映画は制作も脚本も監督も、これを完全に理解していないまま映像化しているから、仕上がったのは「何が何だか分からない」だ。
とはいえ個人的には魅力を感じた設定でもあるから駄作や失敗作よりも「珍作」として感想を締めます。特別枠です。そうゆうことす。
- 作者: V・S・ラマチャンドラン,山下 篤子
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2011/05/25
- メディア: 文庫
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