ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
東京の下町。高層マンションが連立する片隅でひっそりと暮らす柴田家。その家族はその日の食い扶持を軽犯罪で行っていた。そんなある日、父の治と息子の祥太は団地のベランダでひっそりとしている幼い女に出会い。家へと連れて行ってしまう。中々元に帰りたがらない女の子にゆりに柴田家は家族の一員として向かい入れて貧しいながらもそれなりの幸せに満たされていたが、やがてそれは終わり、柴田家はバラバラになり、それぞれの胸の内と向き合わなければいけなくなる。
いきなり実も蓋も無い結論からいうとこれはチャールズ・チャップリンの『キッド』だ。チャップリンは映画史では喜劇のジャンル、笑いと泣きを融合したペーソスという概念を発見して名が残っている喜劇・映画監督だが、それに対して『万引き家族』はペーソスが無い。それだけの違いだ。
チャップリンのペーソスがどうして大衆に受け入れられたのかというと。映画が公開された1920年頃のアメリカは大都市での貧富の差が拡大してスラム化が進み、貧困が「可視化」されるようになったからだろう。もし、スラムがなければチャップリンのペーソスは早すぎた概念として映画史に名を遺した程度だったかもしれない。
『万引き家族』も大衆のためにならペーソスのドラマで撮られても良かったはずだが、そうにはなってはいない。もちろんそれは脚本・監督の是枝裕和に喜劇を撮る力がないからでもあるが、目的は別のところにあるからだ。貧困の「可視化」だ。スラムという分かりやすい記号が使えない真綿でじわじわと首を絞められるような現代の見えにくい貧困をどうやって表現するか?この映画はそれだけを目的に撮られている。
柴田治は一生、自分等が住めるはずがない高層マンションの建築現場で働き。柴田信代は職場で客の物をくすねるくらい安い仕事をしているが、それでも時給の高さでリストラにあい。柴田初枝は夫に捨てられていなければそれなりの暮らしをしていたはずなのにそうはなってはいない。仕方ないとはいえ、やまれぬ事情で犯罪に手を染める、古い言い方をすると畜生道を生きている人々でもある。柴田亜紀が吃音の客に対してサービス以上のことをするのは彼女がまだそこまで堕ちていっていないシーンでその明暗を描写しているからだし、ゆりと柴田家の人々との交流を描くのも、軽犯罪を日常にしている彼等もまた根っからの悪党ではなかったのかもしれない。のを暗に伝えている。
その畜生道を生きている人々が、辛うじて人として生きていられたのは祥太 -- そして、ゆり -- の存在だ。だから初枝は穏やかに去り、事が全て終わったと悟った信代はかつての畜生に戻り、治は別れ際に、おそらく感謝の言葉を発している。これはそうゆうドラマだ。
もちろんそれらは犯罪であることは祥太の視点で描かれているし、なにより映画の協力の名にあるのが万引き防止の組織なのだから、「万引き」という表層的なワードだけでなんやかんやいうのは目的の「可視化」に加担しているわけで「孔明の罠」ならぬ「是枝の罠」に謀られている愚かな人というしかない。
とはいうものの、そんな自分も「是枝の罠」に謀られた愚か者でもあって、だからこんなガラにでもないことを書いている訳で、まぁ、特に良い締めもなく終わります。