ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
ロバート・C・オブライエンの小説『死の影の谷間』の映画化。核汚染で世界中が死に絶えた中、谷間にある小さな村で、犬と共に暮らす女性アン・バースデンは孤独だった。そんなある日、アンは滝で水浴びをしている男を見つける汚染されていた水で高熱に陥った男はアンの介護で命を取り留める。男の名はジョン・ルーミス。信仰者であるアンと研究者で無神論者のルーミスは共に暮らしているうちに近い関係にはなるが、一線は越えない。そして、二人の前に第三の男であるケイレブが現れる。
アダムとイブのうちイブだけが罪を犯しても、エデンの園を追放されるのか?
『死の谷間』はそれを描いたドラマだ。その結論を導くには、まずルーミスが性的不能者、つまりインポテンツという設定を受け入れなければならない。
ルーミスがインポテンツである理由は四つ。
① ルーミスと親し気に映っている女性の写真でアンが「奥さん?」と尋ねたら、それを否定する。
② アンがセックスをしても良いといってきているのに、受け入れない。
③ それなのに後から来たケイレブに警戒心(&嫉妬)を抱き、アンには「心から愛している」と告白してしまう。
④ ルーミスは敬虔なクリスチャンでは無い、無神論者だ。
この四つの矛盾と齟齬を考えに入れて推論するなら、単純な答えは二つ。ルーミスは童貞かインポテンツのどちらかになる。しかし、童貞でも立つモノは立つはずなので、やはりここはインポテンツだろう。
そうなら台詞にすれば良いのに?と考えるのは当然だが、そうしないのは「伝えたいところはそこじゃない!」に決まっている。そこで、教会を壊してその木材を水車発電にする流れの意味が見えてくる。それは「知恵の実を食べた」行為だからだ。その後にアンはケイレブとセックスをしている。つまりアンは神への信仰を捨てて快楽(快適)を選んだ。
それではケイレブの役割は何かといえば旧約聖書のアダムとイブにおける蛇だ。なにしろ水車発電の構築を迷っているアンの背中を押すのはケイレブだからだ。信仰者なのにも関わらず、それを進めるのは信仰でななく嘘つきに決まっているから。それにケイレブはルーミスが指摘しているとおり放射性物質で汚染されている。蛇そのものだ。
ここまでくるとルーミスの役割はアダムでアンの役割はイブなのは分かる。分かるのだけれども、ここからが込み入っているのが、ケイレブを消したのはルーミスの意思か、それともアンにそそのかされたのか、どちらかなのだが。ラストシーンから察するにどうやら後者らしい。
つまり「知恵の実を食べた」イブがアダムをそそのかして蛇を殺したことになる。そうすればアン(イブ)とルーミス(アダム)はこの楽園に住みづつけることができるから。アダムとイブが神から楽園を追放されたのはお互いがセックスの快楽を知ってしまったから追放されたのであって、(だから腰を覆い隠している)お互いでの快楽を知らない、つまり、片方に罪があっても、それは神には知られていないことになるので、ルーミスとアンは神から楽園を追放されない。と導かれる。
どうして、アンが変わってしまったのかが推測できるのかというと、アンがテーブルにあるガラスのコップを落とすシーンがあるからだ。これはアンドレイ・タルコフスキー監督『ストーカー』からの引用だと分かるので、あのシーンも「前とは違うモノへと変化した」のを示していたからだ。それをここに当てはめるとアンもそうなる。
つまり、聖書の物語を別の解釈で映画化すると、要らない批判が出てくる可能性が高いので、それを避けるために(原作を利用して)このような構成になったのだろ。
『聖なる鹿殺し』ほどには複雑ではないが、聖書を題材にした思考実験のような地味な寓話になりがちな物語をマーゴット・ロビー、クリス・パイン、キウェテル・イジョフォーのスターの魅力で、具体的にはすっぴんのマーゴット。髭面のクリス。チラリと見える胸毛のキウェテルで、薄っすらと華やかに佳作になっている。そんな感想でした。

- 作者: ロバート・C.オブライエン,Robert C. O'Brien,越智道雄
- 出版社/メーカー: 評論社
- 発売日: 2010/02/01
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 2回
- この商品を含むブログ (4件) を見る