えいざつき ~映画ポエマーの戯言~

映画批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

『未来のミライ』ネタバレ無しのド直球な感想

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

 

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mirai-no-mirai.jp

 

ある街の、小さな庭に小さな木の生えた、小さな家に暮らす4歳の甘えん坊の男の子くんちゃんはお兄ちゃんになった。妹の名前は未来(ミライ)ちゃん。おとうさんもおかあさんも未来ちゃんにかまって愛情をミライちゃんに取られたとおもっている感じているくんちゃんはおかんむり状態だ。そんなある日。小さな庭に謎の王子と謎の少女がくんちゃんの前に現れた。少女の名前はミライ。それが未来からやって来た成長した妹のミライだと知ったくんちゃんは、その日を境に不思議な体験をすることになる。

 

 結論からいえばこうなる。

 

このアニメーション映画は細田守監督のプライベート映画です。

 

どうしてプライベート映画なのかを説明すると、この映画にはドラマチックがない。

 

ドラマチックとは簡単にいうと「シーンとシーンとの組み合わせで、そこから最も論理や常識では解決できない感動」だ。伏線ともいう。それが単調だとドラマチックにはならない。そして、観客にはそれを簡単に悟られてはいけないモノでもある。例えば風の谷のナウシカで、どうしてあの王蟲の大群にナウシカが立ち向かうシーンに観客が感動できたかというと……。

 

ナウシカの指を噛むテト(動物)に声をあげたり逆らわずにテトを落ち着かせる。

〇 父を殺された怒りでトルメキアの兵士を惨殺する。

〇 死を覚悟したミト達にたいして、腐海なのにもかかわらずマスクを脱いでミト達を思いとどませる。

 

の三つを先に描いてクライマックスをやれば、より感動的にみえる。これがドラマチックだ。『未来のミライ』はそれがない。

 

もっとも、細田監督はおそらくそれを承知でやっているフシがある。何故なら主な舞台であるくんちゃん家の段々仕様の家屋設計で、あまりにも特殊すぎるから。だから上下に移動するだけでアクションが生まれるし、それにちょっとしたエピソードを乗っければスリルとサスペンスも作れるという単調にはならない構造になっている。そうゆう意味では時をかける少女以来の演出が冴えわたっているのも確かだ。ドラマどころか物語そのものが破綻しているのに観れてしまう水準までもってゆけているのだから。

 

要約すると、このアニメの面白さはドラマではなく監督のセンスのみで成立している。このような出来になったのは監督自身が5歳の長男と2歳の長女の父親であることが大きい。どうみても「親の子に対する想い」が透けて見えてくるからだ。だから、それらをドラマという段取りで汚したくないのは個人としてはよく分かる。-- そうでなければ、ケモノのアレとか、ハチのアレとかはいちいち描く必要はない 。-- ジブリみたいなのを予想していたら明るい押井守みたなモノを見せられて面食らったのも確かなのだけれども。

 

そして「想い」を題材にしているだけあって演出センスは冴えているが、フェデリコ・フェリーニ北野武に比べてぶっ飛び具合はおとなしめで冒険的でもない。だから、可もなく不可でもなく、最後までスラスラと普通に観てしまった。そんな感想です。

 

追記無理に物語に整合性を求めれば、くんちゃん家の庭にある小さな木、つまり「未来の家族(記憶)の木」が、くんちゃんに見せた「優しい幻」と解釈もできる。ミライが去る時にくんちゃんが見るのはあの木だし、タイトルの『未来のミライ』にもかかるので、『メッセージ』に出てきたヘプタポッドみたいな設定と役割をあの木がになっているのかも。注:ネタバレなので読むときは反転して読んでください。

 


「未来のミライ」予告3

 

 

  

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