えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

【ネタバレ無】美しさの刺客『ベニスに死す』

お題「最近見た映画」

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

 

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www.imdb.com

 

ノーベル文学賞受賞者トーマス・マンの同名小説の映画化。理想の美を求める老作曲家アッシェンバッハは静養のためベニスを訪れ、そこで理想の美である少年タジオを見かける。それ以来、彼はタジオを求めて彷徨うようが、ベニスにも疫病であるコレラが流行しはじめたのを知ったことで、街を出ようするが、思わずタジオを追いかけてしまい、自身の心を悟る。

ルキノ・ヴィスコンティ監督

 

ヴィスコンティ作品の魅力はデカダンスだと言われている。つまり、その作品歴を魅力として感じるのは、ある種の教養が必要にもなるのだが、今回はあえて自分の俗っぽさで語ってみたいと思う。

 

しかし、まず最初に断わっておくと。自分はヴィスコンティ作品を4作品 -- 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、『夏の嵐』、『ベニスに死す』、『家族の肖像』-- しかちゃんと観ていない。あとは観てないか、寝落ちで放置してそのままなので、つまりはヴィスコンティ弱者だ。そんな自分がヴィスコンティそのものについて語るつもりはないし、もちろんトーマス・マンの原作も昔に飛ばし読みをした程度だ。

 

それでは、どうして『ベニスに死す』を観たのかと云えば、単純な話タイミングでしかない。観ようと予定していた映画が満席だったので、この作品を選択したに過ぎない。もちろんレンタルで観たことはあるが、映画館では初めてでもある。

 

さて、言い訳を終えたところで本題に入る。この見立てとドラマは大方どおり、ダーク・ボガード演じるアッシェンバッハが、完璧な「美」であるビョルン・アンドレセン演じるタジオに出会い、言葉もかけずにただ見つめるだけで死んでゆく。というとてもシンプルなモノだ。誰もが気が付くとおり、死のイメージが「白」で統一されて -- スーツに靴に白化粧、消毒液 -- いたり、補足されるイメージ「醜」は劇中で道化師が見せた笑いで関連づけられている。だから、認めたくなかった自分の老いからくる醜さを悟ったアッシェンバッハは笑うしかない。

 

見立てはこれでいいのだが、このドラマの解釈となるとモヤモヤとしたモノが残る。「努力によって美を創れると信じている」と信じているアッシェンバッハと彼の友人でありライバルの「芸術家に創れない究極の精神的概念としての美」を確信している、アルフレッドとの対話から、ドイツ哲学の根底にある、超越したものを信じない実証主義を主張するアッシェンバッハ対して、超越したものを信じている神学的視点を主張するアルフレッドとの絡みをへてからの、美の化身タジオがアッシェンバッハの信念(美学)を打ち砕く解釈になっているのは推察できるが、ルネサンス以後の芸術は何かしらの過去の批判から成り立っている側面がから見れば、実証主義が神学を打ち砕く展開ならまだしも、ここではそれが見事に転倒していてメッセージが解らない。これはもう、ヴィスコンティなりのデカダンスだと理解するしかないのだろう。-- そうした展開・構造には、おそらく近代・現代ドイツ史の知識が必要なのも含めてだ。

 

実は、感想というよりも感覚なのだが、初見のときは漫然としていただけだったが、今度はどうしてか、怖いと自分は感じてしまった。多分に若い頃よりも年をとってタジオよりもアッシェンバッハに近づきつつあるからなのかもしれない。タジオの美しさはあ同世代には分からない -- ラストで同年代の少年をからめて、それを強調するシュチエーションもある -- だろうし、分かる歳になっても、それに手を出すと、その瞬間に「醜」になってしまう現実になってしまうからなのかもしれない。よく分からないが……

 

 今回はそんな感覚をつれづれと書いてみた。

 


Death In Venice (1971) Official Trailer - Luchino Visconti Drama Movie D

 

 

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