ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
今日のポエム
天才をあつめてはただ眺めみつめる。
今回から我がブログ「えいざつき」は変わります。
映画ポエマーブログとして生まれ変わります!
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
そして、その輝ける第一回は
『蜜蜂と遠雷』。そして、今回のキーワードは。
ドラゴンボールか!
ネタバレ無しやで。
いまさら『ドラゴンボール』について語るのは野暮の極みだが、今回の主旨にはどうしても必要だ。『ドラゴンボール』とは主人公・孫悟空(そん・ごくう)を中心に展開する「冒険」「夢」「バトル」「友情」などを描いた長編漫画。であり、はっきり言って、ただのバトル漫画だ。まぁ、少年漫画は大体そんなもんだけど。
ただ、マンガ読みズ(σ(゚∀゚ )オレ俺造語!)の自分からみれば原作者の鳥山明の作家的モチベーションはどうやら、少年編の「天下一武道会」までで、大人編は鳥山が好きなウーロンやクリリンやレッドリボン軍総帥のようなキャラは極力出さずに、読者受けしそうな ーー さすがに、我慢できなかったのか途中でミスター・サタンとか出していたけど -- エドワード・ファーロング似のアノ子だとか、バトル漫画の基本キャラが沢山に登場する。それを鳥山自身のデザインとデッサンの高いスキルを使って書き続けた。ようするに蛇足が一番の人気なわけだ。そうゆう意味では大人編は純粋に鳥山明の技巧のみでやり切ったところがある。
そして、今作の『蜜蜂と遠雷』も『ドラゴンボール』とドラマは同じ、天才がさらなる極みへと進化するドラマだ。だから、栄伝亜夜が心の傷から立ち直ろうとする設定はあるのだが、ダメな状態からセンスが元に戻るのではなくて、映画のはじまりから、すでにセンスをもった天才設定でスタートする。「あんた、天才じゃないの!」(超意訳)な台詞もちゃんとある。(画像はすべて予告から)
そう、このドラマは孫悟空こと栄伝亜夜こと松岡茉優が戦闘種族サイア人からスーパーサイヤ人に進化する光景を描いているのだ。つまり、松岡の心の傷からの立ち上がりの物語はあくまでも観客に物語進行をそれとなく知らせ、迷子にさせないストーリーテリングために設けられたのにすぎない。
ところでスーパーサイヤ人へと進化するのは松岡茉優だけではない。マサル・カルロス・レヴィ・アナトールこと松岡ウィンもスーパーサイヤ人へと進化する。
もちろん森崎の役回りは力が孫悟空と拮抗しているという意味でベジータだ。
そして、そんな天才ふたりをスーパーサイヤ人へと導くのは、風間塵こと鈴鹿央士だが、もちろん実力は松岡と松岡(ウ)よりも、ちょっと上で設定されている。そして、その邪気のない純真さはやはり魔人ブゥだろう。
この映画は、そんな我々、凡人には理解できない天才3人の拳と拳をぶつけて戦う代わりに鍵盤と鍵盤を叩いて戦うバトルという名のキャッキャウフフ(まさに強敵と書いて「とも」と呼ぶ世界)をただ眺めるだけの119分なのだ。
だって高島明こと松坂桃李が、そう言っているのだ。3人が浜辺ではしゃいでいるところで「わからないです」とか言っているのだから。
もう、分かったでしょうが、松坂桃李の役どころはヤムチャです!人間なら最高峰だろうが天才には僅かに及ばないのが今作の松坂だ。
そうして、くどいが松坂の「わからないです」の台詞は、この映画からのメッセージでもあり、作り手からの宣言でもある。「天才の事は、ぜーんぜんわからないので、これは彼らのバトルを通じて進化してゆく様を凡人の我々が、ただ眺めているだけの映画です!」と。つまり『ドラゴンボール』と同じだ。
だから、『ドラゴンボール』がバトル描写の技巧のみで盛り上げたように、今作でもピアノ演奏という技巧をしっかりと抑えておけば、我々凡人でも、何だか知らないけども感動できるようにはなっている。少なくとも、小説や数学に比べればイメージはしやすい。ようは、四人のそれぞれ違いを演奏で退屈をさせずに最後まで見せて魅せればいいのだから、そして、それは見事に成功している。
ただ、作り手の技巧の良さは伝わってくるのだけれども、それ以外の何かを感じなかったのも確かなので、その先を見たい自分は、やっぱり不満もある。監督・脚本・編集の石川慶のセンスの良さは感じるが資質まではちょっと分からない。撮影監督のピオトル・ニエミイスキの技能の高さは分かるのだけども。
しかし、やっぱり、この映画は「演奏がカッコイイ!」ので、すべてOK!
余談:でも、原作でもそうだが、この作品一番のトリックスターは名前のみで素顔を出さないホフマンだろう。「天才達をさらなるステージへと引き上げる」彼の画策は『2001宇宙の旅』におけるモノリスみたいな存在になっていて。つまり、これは音楽映画というよりもSF映画に近い気がするのは自分だけ?
VODで鑑賞。