ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
妻の手術費を用意するため、元軍人のウィル(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン二世)が血のつながらない兄ダニー(ジェイク・ギレンホール)に相談すると、3,200万ドルを奪う銀行強盗を提案される。襲撃当日、犯行は当初のもくろみ通りにいかず、警察に追われる事態になってしまう。追い詰められた二人は逃走用に救急車をジャックするが、そこにはウィルに撃たれて瀕死(ひんし)の警察官と、救命士キャム(エイサ・ゴンサレス)が乗り合わせていた。
シネマトゥデイより引用
今回はネタバレナシの超イカレ解説モード
ベベベン、ベンベンベンベン、ベンベンベンベンベイベンベンベン、ベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベイベンベン。
ついにマイケル・ベイについて語る時が来た。
キターッ!
とまぁ、最近あんまり書く気力が無いから無理矢理に気分を盛り上げてみたが、かたや熱烈なファンがいて、逆に眉をしかめる映画好きもいる彼の作品群は難解でもないのにヒジョーに語り難い特徴を持っているのよベイは。
もうちょい具体的に書くと文字でベイの特徴を書くのは難しい。特にアレが。
視点の誘導が無い。メチャクチャ。
視点の誘導って、動線とも呼ばれる。Wikipediaだと建物内を人が自然に動く経路を線でしめしたもの。と書かれているけど、映画のケースだと、基本はこうなる。
まずは視線A。シーンの登場はスクリーンから向かって右側に向かっている。そのシーンまたはカットの主導権を握っているキャラだ。
次に視線B。スクリーンから左側に向いている。
視線Aと視線Bが向かい合う。
これは対立の構図。意見の違い・感情の探り合い・好悪と様々あるし、同じ画に収まっているものやカットで割っているのもあるが、言わんとするのは一緒。
そして、心が通じ合っているのが視線AとBが同じ方向を見ているシーンまたはカット。
これも、正面や横向きがあれども、お揃いで座っている画が多くある。
自分ら観客はそうした視線のポイントを無意識に感知して直観で雰囲気を察するようになっている。だからそのポイントさえ押さえておけば、どんなに激しく動いていても苦にならずに映画に没頭することができる。例えば、『ドラゴンボール超 ブローリー』(2018) だと……
こんなに激しく動いていても、苦にならず最後まで観続けることができる。もちろん視線のポイントを押さえているから。
ちなみに、このアニメ半分はこんな感じだ。
ところがベイは違う。観客がポイントを感知させる前にビュンビュンとカットを切り替えてゆくのだ。本作だと……
と、まぁ。こんな感じで変わる変わる。激しく目まぐるしい。視線の誘導なんてあったもんじゃない。ベイがある種の映画ファンから疎まれるのはそうゆうところだ。
映画開闢120年で積み上げた経験則をベイはガン無視。
爆発だけなら、まだレニー・ハーリンがいるからな。
でも、ベイの凄いのは、映画としては邪道極まりない視線の誘導無視を極めたってところだ。とにかくやる、やる!徹底的にやる!!
そうして出来がったのは、まるで新興宗教の説教を聴いているかのような一体感。
そう、ベイの映画は宗教!
だから、乗れる者と乗れない者との差が極端に激しい。宗教はどっぷりとハマれる者にとっては至福だが、どっぷりになれない奴等にとっては、ただの「おかしな人達」にしか過ぎないから。
そして宗教なので、作品からドラマを読み取ることは不可能、ナッシング。
だからベイの作品は無駄に長い。長いが、新興宗教の説教なんて無意味だけどノリと勢いで皆を魅了するモノだと相場が決まっているからな。
なので、ベイの作品郡とはドラマやメッセージではなく、ベイの映像という名の説教をただただ全身に受け止めるだけ。
ドッカンドッカン爆破はあくまでも付録。
これが、マイケル・ベイよ!
でも、チョコッとだけ真面目に語ると、ベイは毎作品ごとに軍人には最大の敬意をはらう。本作も軍人は救われるし、何よりも、ベイ宗教の視線誘導メチャクチャをかろうじて軽減しているのは襲撃犯を演じているジェイク・ジレンホールのギョロギョロ目玉のおかげなところがある。
ありがとうジレン!
ひでぇオチ。
劇場で鑑賞。