ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
今日のポエム
この素晴らしき空。
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
そして今回のキーワードは
究極の空!
今回はネタバレスレスレでいいでしょ?
本作については説明すら必要がない、本来なら交わるはずがない王女と記者との淡い恋模様を描いたもので、誰もが認めるロマンティックラブコメディであり名作だ。
前回『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の感想で、中は空虚だが、外側が美で装飾されている。と書いたが、実はそれを上回る究極の空虚が本作だ。
本作は「空虚そのもの」だからだ。
ネットスラングで何かにハマってしまうことを「沼に入る」と表現することがあるが、『ローマの休日』はその比ではない。
あれはさしづめブラックホールだ。あれを一時でも観てしまった者は感動という名の思考停止状態に陥る。
そして、本作を褒める言はあっても批判する言は見たことない。しかし本作ほど意図から外れて誤解をされている作品なのも確かだ。今回の主旨もそこにある。
どうして、そう言い切れるかと云えば、本作を撮った監督ウィリアム・ワイラーの作品歴から眺めれば本作が普通のロマンティックラブコメディだと、異質に感じるほど浮いているからだ。
まぁ、ワイラー作品を3分の1観ているかどうかの自分が、その作風を語るのはおこがましいが、あえて面の皮を充分に厚くしてそれを要約すれば、登場人物たちの描写でアメリカの習俗(風俗、社会状況)紡いでいるといえる。
だから一見、アメリカの習俗と関係がなさそうなルー・ウォーレス原作を映画化した1959年アメリカ公開の史劇『ベン・ハー』でも、その時期にあったアフリカ系アメリカ人公民権運動 (1954~1968) について描いていると気がつけば、蛇足ともいえるラストの人物が誰をイメージしているのかは容易に連想できる。(画像はIMDb)
だから、この『ローマの休日』もワイラー作品として眺めるなら、単純なロマンティックな物語ではなくて、何かの意図があって撮られたのだと誰もが考えるのが道理だといえる。
そこで、最近引き合いに出されるのは、本作の原案・脚本を執筆したダルトン・トランボが共産主義者だと断定されて映画の表舞台から追放された、いわゆる1949年から1950年にアメリカ国内で行われた共産党員とそのシンパの排除の政治的な運動、赤狩りの批判として撮られたのでは無いのか?という説だ。
つまりは『ローマの休日』は赤狩り批判であり、その政治的抑圧から表現の自由を勝ち取るために説いたメッセージなのである、という解釈だ。
ただ、その説はトランボが『ローマの休日』の原型を書いたのは赤狩りがはじまる前の1940年であり、公開の際にどのくらいの書き直しをしたことで、何が加えられて何が削除されたのか、それが本作にどのように反映されているのかが判っていないので、単純に赤狩り批判を示しているとは断言することはできない。つまりは曖昧だ。
では、お前はどう考えているのか?と、問われたら自分も本作は赤狩りをモチーフにしていると考えている。しかし、解釈は違う。それにそのヒントを与えてくれたのは映画評論家の淀川長治(故人)だ。淀川は同じくワイラーの『孔雀夫人』(1936) を観ないで『ローマの休日』を語ってはいけないと、言っているのだ。-- ただし淀川長治は『ローマの休日』は『孔雀夫人』の焼き直し (つまり『孔雀夫人』が上) という意味でそれを言ったのだろうし、そして、そのあたりの出展がどうしても思い出せないので、自分が本作を堕としたいがために無意識に捏造したウソ記憶の可能性もある。(画像はWikipedia)
『孔雀夫人』とはどんな物語かといえば 、ジャンルとしてはこれもロマンティックラブコメディで、元々に互いが噛み合ってなかった元事業者の夫と妻が仲を修復しようとヨーロッパ旅行をするが、ヨーロッパの生活様式に憧れている自由奔放な妻は夫そっちのけで旅の途中で知り合った貴族の男性に夢中になるが、結局は貴族社会の格式に打ちのめされて、しかも夫は旅の途中で知り合った未亡人と慕い合うようになり、最後には妻から去ってゆく。
この映画の原作者シンクレア・ルイスの情報を知っていたら、この表向きはロマンティックラブコメディが実は風刺ドラマだというのはすぐに連想できるし、それを知らなくても映画を観れば何とか分かる。それではこれが何の風刺ドラマかと言えば、世界恐慌の不況から脱して工業力で世界一となって自信をつけ始めたアメリカに対して歴史・文化的な厚みがあるヨーロッパがアメリカの歴史・文化的の無い薄っぺらさを痛烈に批判している。これが『孔雀夫人』だ。
それを踏まえて『ローマの休日』を眺めれば、本作が赤狩りという政治的抑圧から表現の自由を勝ち取るためのメッセージを暗に示した。とは、違った角度からの赤狩り批判なのだというのが見えてくる。つまり……。
赤狩り、というスキャンダルを、ひとつの見世物として傍観、楽しんでいた。当時のアメリカ社会の風潮を痛烈に批判している。ということだ。
例えばこんな話がある……
ジョセフ・F・マンキーウィッツは語る。
「1950年代のひと頃、マッカーシーの赤狩り旋風が吹き荒れていた頃だが、私は‟デレクターズ・ギルド″の会長をつとめていた。そしてある時、セシル・B・デミル監督を頭とする、ギルドの一派が、マッカーシーにごまをすろうとしてか、全会員に国家に対して忠誠の誓いの署名を強制しようと試みたことがあった。それが、画策されていた時、私はたまたまヨーロッパに行っており、ハリウッドを留守にしていたが、かれらがその通知を送ってくるや、すぐ折り返し電報を打った。ギルドの会長という立場で、そもようにいかなることにも大反対だ。という内容のね。すると、たちまち私のことをあげつらう記事がゴシップ欄に次々と現れたのだ。『ジョセフ・F・マンキーウィッツはかわいそうな男だ。彼が‟アカ”だとは知らなかった』という調子の、根の歯も無い中傷記事だった。知ってのようにその当時、デマはほぼ証明済みの事実同然に信じこまれたものだ。そのようなわけで、事態は深刻になり、私は将来の道が閉ざされ始めたことに気がついた。
注釈:
ジョセフ・F・マンキーウィッツ -- 1930年代頃から70年代頃まで活躍したアメリカのの映画監督・映画プロデューサー・脚本家。代表作『クレオパトラ』(1963)『探偵スルース』(1972)など。
セシル・B・デミル -- 1910年代頃から50年代頃まで活躍したアメリカの映画監督。代表作『大平原』(1939)『十戒』(1956)など。
ピーター・ボグダノヴィッチ著:インタビュー ジョン・フォード
などだ。つまり、あの時の赤狩りとは、それが関係がない人々にとっては娯楽の一部だった訳だ。
これは、巷に流布されている。『ローマの休日』の原題が "Roman Holiday" → ローマ人の休日 → ローマ帝国人休日の楽しみコロセウムでの剣闘士どおしの戦いを高見の見物で楽しむ。の解釈とも繋がっている。つまり庶民よりもステータスが高い人物をスキャンダルにさらすことで、見世物として楽しむ構図だ。
だから、『ローマの休日』の本質であるドラマはアメリカを象徴する記者がヨーロッパを象徴する王女と出会うことで赤狩りというスキャンダルを見世物とする考えを改める。なのだ。
なのだが、そこに思わぬ誤算が生じる。王女を演じたオードリー・ヘップバーンがあまりにも役にハマりすぎて、魅力が増幅した。(画像はIMDb)
そのせいで、本作の辛辣な部分が中心に吸い尽くされてしまう結果となった。つまりオードリーこそが、このブラックホールの中心である特異点となってしまったのだ。そして、その状況は今でも続いている。
人は何よりも、汚れの無い無垢のキャラクターに弱い、一旦そう感じてしまえば、自らがどこか汚れていると無意識に自覚しているがために、いっそうその無垢さに「夢」を見る。本作のオードリーは人々からの、その無意識な「夢」に合致したキャラクターだったがために、人々の想いを吸い込んで『ローマの休日』という作品はブラックホールとして成長していったとも云えるのだ。
DVDで鑑賞。
Roman Holiday Trailer 1953 - Official [HD]