ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
今日のポエム
その美しさに惑わされてはいけない
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
そして、キーワードは。
現代版天国の日々!
今回はネタバレスレスレの戸惑い説明モード。
なんて静謐な作品だ。
ただ、その静謐さは観客にではなく、実際に移動労働者として働いている高齢者の漂流者たち、本作でいうところのノマド達に向けられているエールの様なもので、そのところを勘違してはいけない。間違っても彼らの生き方に理解・共感などはしてしてはいけない。それは『ジョーカー』(2019)や『パラサイト 半地下の家族』(2019)に出てきた裕福層と同じ立場になるからだ。
繰り返していう、理解・共感してはいけない!
そして、個人的には。監督のクロエ・ジャロが尊敬するテレンス・マリックへの影響が強すぎて、ドラマがとても掴みにくい感じがする。
もちろん、本作は優れた作品であり、オスカーを受賞してもいいのだが、その辺りが妙にニョモる感覚もあるからだ。
ひどい悪口をあえていえば雰囲気映画。
しかし、雰囲気映画といえば映像は綺麗だが、中身がスカスカという評価だが、本作に限ってはそれはあたらない。ドラマという中身はちゃんとある。しかし、そのドラマの解釈をどうやってすれば良いのかがひどく分かりにくい。それに、良すぎる画(映像)がそれに拍車をかけてドラマを弱くしているところがある。それが厄介なところ。
つまりバランスが悪い。雰囲気強過ぎ映画。
さて、そのドラマだが、物語はジェシカ・ブルーダーのノンフィクション『ノマド : 漂流する高齢労働者たち』が原作で、2008年に起こった金融危機リーマン・ショックをきっかけに住む家を失った多くの高齢者が自家用車で寝泊まりをしながらアメリカの各地へ働き口を求めて移動して、それでも、それなりの自尊心と互いに協力をもっている現代の遊牧民(ノマド)を意味している。
フランシス・マクドーマンドが演じた主人公も工場で成り立っていた街が工場が閉鎖したために街そのものが消滅して結果としてノマドになってしまう。最初は現状に戸惑い「ホームレスではないハウスレス」と強がっていた主人公もノマドを続けてゆくうちに様々な出会いと別れをして、本当の「ハウスレス」として生きてゆく覚悟をしてゆく流れになっている。それを美しい映像で撮っている。
つまりは、自分はテレンス・マリック監督『天国の日々』(1978)の現代版をやろうとしたのではないのかと勘繰っているのだ。
第一次世界大戦のアメリカを舞台に移動労働者の悲惨な生活と、それに相対するかの様な美しい映像で綴られた『天国の日々』と本作とがダブって見えたからでもある。(画像はIMDb)
だが、現代のノマドの原因とは新自由主義経済で中間層が崩壊している現状でしかない。本作で描かれているのは、どう言い繕っても社会の崩壊と搾取の構造なのだから。
そして、第一次世界大戦という過去にした題材ならそれもアリなのかもしれないが、現在進行の出来事を「美しい」感情に浸らせても良いのかの疑問がある。
別の側面から見れば、構成が実際のノマド人物も出演しているノンフィクションの部分とフィクションの部分の整合がアクロバティックすぎる気もする。予告にもあるのでネタバレにはならないと思うが、ノマド達をかつての「開拓民」というアメリカの伝統へと回帰させてゆく辺りは不平等を批判的に扱うリベラリズムよりも私有財産を損害しない限り自由に行動することを主張しているリバタリアニズムよりの考えは似ているようで、リベラリズム → 改革のために説局的に干渉する。に対して、リバタリアニズム → 自分は干渉しないし、他人にも干渉はされたくない。なので、新自由主義経済で崩壊した社会が背景にある本作には合わず見事に違っている。
付け加えるとリバタリアニズムとは所詮は大陸のような広い大地があるから成り立つようなところがあって、日本の様な島国で人口密度が高いところでは成立しにくい。だから本作に純粋に感動する人は大陸人気質かそれに対する憧れみたいなものがあるのかも。しかし、それが出来るかどうかは別の話だ。
それとも、伝統への回帰なら、それはあまりにも純粋&単純すぎて問題がありすぎる。理想的過ぎるからだ。
でも、それは百も承知で、そのドラマを組み立てたのなら。考えられるのは前述した現在のノマド達に対するエールだと考えるしかないだろう。
-- しかし、観る者によっては、それをストレートに受け取って感動してしまう危うさもあるのも確かだ。
でも、やはり何を伝えたかったのかは良く分からない。
ここんところ今でも答えが出ずに考え中。
劇場で鑑賞。