えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

日本沈没 (1973)

お題「ゆっくり見たい映画」

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

 

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映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!

 

今日のポエム

スペクタクルを書けた男

 

今回はネタバレなしの解説モード。

  

注意:今回は1973年公開『日本沈没』を本作と呼称して、小松左京の原作を原作として呼称します。

 

今回は作品そのものより、それを書いた脚本家について語る。

 

よく再映像化される大作として『羅生門』、『白い巨塔』、『砂の器』、『日本のいちばん長い日』、『八つ墓村』がある。

 

そして本作『日本沈没』もそう。

 

これらは公開時の大ヒットした映画で、その時の強烈さに惹かれ今でも人々の記憶に残っているからであり、そのために何度も映像化され続ける。

 

大衆の心を掴んでいるのだ。

 

では、その共通とは何か?

 

答えは脚本が橋本忍だ。

 

eiga.com

 

橋本忍の名前は知らなくても、その脚本は強烈さ故に忘れ去られるどころか、今なお現在のドラマに影響を与えている。特にミステリー作品は映画どころかテレビまでも『ゼロの焦点』や『砂の器』から逃れる事ができない。それはもはや呪いと言っても良い。

 

それはあの『シン・ゴジラ』ですらそうだ。『シン・ゴジラ』は岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』から多大な影響を受けているが、その脚本も橋本忍が書いている。

 

ならば、橋本脚本の魅力とは何か?それを一言で言い表せば、文字でスペクタクルを作ることができた脚本家だという事だ。

 

壮大なドラマには贅沢に予算をかけて大きな作品にする海外に対して、橋本脚本はほぼ文字のみでそれをやってのけたという快挙でもある。そしてその偉業はまだ覆らない。

 

もちろんその影響から抜け出そうとして大きな作品を作ろうとする作り手達もいる。例えば原田眞人藤井道人監督などがやってはいるが、やはり橋本脚本のレベルまでは行かなかった。まぁ、黒澤明と組んでいたのだからそれは当然といえば当然なのだが。個人としてそれに対抗できたのは『仁義なき戦い』や『二百三高地』の笠原和夫だけなのかもしれない。

 

さて本題。ダラダラと述べたとおり橋本脚本は大きな作品を次々と書き、その影響は計り知れないが、その中でも本作は語りやすい部類に入る。

 

原作はSFの上位にあるハードSFに位置するものであり、なので当時の科学的知見に基づいた推論を行っていて、それは修士レベルとまで評価されていたらしい。だからそのリアリティを読者に感じさせるためのテクニックとして主要人物の会話(独白も含む)だけて進行するだけではなく、端の人々のエピソードを描き出し、さらにそれ以外の地の文が大部分を占めている。そうやって日本が無くなるという大嘘にリアリティを持たせてやっている。

 

しかし本作は映画だ。余計なエピソードはだらけるし、ましてや地の文をスクリーンに出す間抜け事はできない。それをどうやったか?

 

観た者なら直ぐに気がついただろうが、地の文を喋らせても違和感の無いキャラを本作に作ったのだ。

 

そう丹波哲郎演じる山本首相がそうだ。

 

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日本沈没(1973)

そして、山本首相の心境はそのまま本作の日本国民の代表であり、ズバリ本作を観ている観客そのもだ。

 

だから、観客は丹波哲郎を通して我々は、この壮大なドラマを観ている事になる。彼の心境こそが本作の「読み進める力 (リーダリビティ)」となっているのだ。

 

もちろん、それはSFとしての嘘の部分に田所博士を演じる小林桂樹のエキセントリックな行為を山本首相が受け入れる事で作品としてのリアリティを担保している。

 

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日本沈没(1973)

くどいが、本作は山本首相こと丹波哲郎が「読み進める力」になっているので、丹波中心にストーリーは展開する。だから原作には無い捻りが加えられている。それは、日本の黒幕らしき人物に田所博士を引き合わせたのは、どうやら山本首相らしいからだ。もちろんそのものズバリなシーンは無いが、原作では日本の黒幕自ら田所と接触して、すべての計画がはじまるが、本作では最初から山本首相は日本の微妙な変化に気がつく展開からすれば、どうやってもそう見るしかない。

 

-- 余談だが、本作にあって原作にないシーン、「避難者の御所への受け入れ要請」や「中国の登場」とかは橋本の願望の表れと考えた方が良い。

 

さらに念押しして置くと、「それは丹波さんだからできるのでは?」とか考えるだろうが、実は『日本のいちばん長い日』ではその役目を三船敏郎が引き受けているので、それは的外れな考え。(画像はIMDb)

 

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日本のいちばん長い日 (1976)

 

つまり、これは橋本脚本の技のひとつだと断言してもよい。

 

通常なら感動へと導くために周到に伏線をはってそれをある一点へと集約させるのだが、橋本脚本にはそれが無い。代わりにあるのは、何か大きなものを作ってそれをゴロゴロと動かせば人は感動する。という摩訶不思議なドラマ理論と謎な自信だ。

 

何よりも「読み進める力」を優先させる。橋本のいう「映画になる」とは、そうゆう事だ。だから原作は何度も映像化されているが、感動をドラマを作ろうとするあまり「物語を進める力」が足りなくなってしまう。そして、「あの時の作品と比べると」と、なってしまうのだ。

 

橋本脚本を越えるスペクタクルが現れないのはそうゆうところだ。

 

もっとも橋本脚本には大きな弱点がある。簡単にいえばドラマの基本であるサスペンスが足りない。

 

ひょっとしたら自身でも、それは自覚していて、あの独自過ぎるテクニックを編み出したのかもしれない。

 

でもそれを見誤ると、『幻の湖』みたいになるのだけれども。(オチが酷い)

 

VOD&DVDで鑑賞。

 

 

 

 

 

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