ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
寺の住職の一人息子・井上ヒロキは、カメラの好きな高校二年生。母タツ子は、彼に勉強しろ、ピアノを練習しろといつも小言を言う。ヒロキのあこがれのマドンナは、放課後、隣の女子校で「別れの曲」をピアノで弾いている橘百合子である。彼は望遠レンズから、彼女を見つめ、さびしげな横顔から“さびしんぼう”と名付けていた。寺の本堂の大掃除の日、ヒロキは手伝いに来た友人の田川マコト、久保カズオと共にタツ子の少女時代の写真をばらまいてしまった。その日から、ヒロキの前に、ダブダブの服にピエロのような顔をした女の子が現われるようになる。
映画.comより引用
今回はネタバレスレスレの解説モード。
子供に見せたい映画。最終回はこれ。
対象年齢は13歳から17歳。
映画世界の恋は美しい。
それが初恋ならばなおさらだ。
それがシリアスでもコメディでもポップでもダークでもポジティブでもネガティブでもそれは変わらない。
それは初恋こそが国籍・種族の壁を超えた普遍的な感情であるからだ。
そして初恋が実ることは滅多にない。つまり初恋は大体が失恋へと直結する。
初恋を描くという事はすなわち失恋を描くと同じ事なのだ。なぜなら初恋と失恋のセットは世界中の人々が必ず体験する理不尽だから。
だから初恋は切ない。
しかし、どうして切ないのか?
その答えを知るにはコレを観ればよい。本作こそがその正体を描いているからだ。
しかし、その切なさは皆が予想するソレとは違う風景が表れる。
それは「死」だ。
大林作品にはいつもそれがつきまとう。その中でも本作は『転校生』(1982) 『時をかける少女』(1982) に綱なるいわゆる尾道三部作の最終作なのだが、そこに共通するのは「初恋の死」だ。
実らなかった恋では無い。「死」だ。
どうして「死」なのかといえば、そこに断ち切れなかった未練があるからだ。それはまるで残留思念であり、そこに幽霊の如く漂っているからでもある。
だから「死」だ。
ちなみに大林が撮ると、どんな題材でもそれは「死」を描く事であり、「どんな死を?」描いているかの違いにすぎない。
それはフィルムの粒状性と映写機の1/4回転でスクリーンに映し出される残像効果 -- 残像なのでコマとコマの間は本来なら繋がっていないのに認識能力がそれに追いつかないから繋がっているように感じる -- を信じた者であり、だからこそ自主映画からCMをへて商業映画監督になっても、つねに8mmフィルムの感覚で撮り続けた者でもある大林監督の美意識からくる感覚であるからだ。
だからそれにハマると見事に決まるが、ハマらないと「私は宇宙だ〜!」になる。
大林作品ではそれは少なくとも『理由』(2004) まで続いている。
そんな監督だからこそ尾道三部作で描かれるのは「初恋の死」になるのは当然。
なので、本作は切ない。
そしてココで語られている初恋とはクライマックス前に主人公の尾美としのり演じるヒロキに富田靖子演じる百合子が呟いている。「貴方は私の片方の顔だけを見ていてほしい」と。
そう、誰もが恋心を抱くのは、その相手の一面だけ。
だから、初恋は死ぬのであり、だから切ない。
そしてそれを引きずり続ける。
もちろん本作ではそれをフォローするかのように、それに対応する心構えも語られている。それは小林稔侍が演じるある人物が「俺はあの人のすべてを引っ括めて好きになったんだ」と。
これは「愛」だ。ここで愛が語られる。
脱線するが、本作の最大の見せ場は稔侍の裸体と金玉だ。
繰り返す、稔侍の裸と金玉!
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人は叶わなかった初恋を背負って生きている。
さて今回は自分でもガラにも無いことを書いた自覚はある。しかしながら、「子供に見せたい」となると初恋の話題を避ける訳にもいかなかった。要領が定まらないのは許してほしい。
そして今回で「子供に見せたい映画」を終了。
DVDで鑑賞。