ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
世界は冷戦真っ只中。英国秘密情報部(MI6)の諜報部員ジェームズ・ボンドの007復帰トレーニングから映画は幕を開ける。マティーニとフォアグラ、キャビアで怠惰になった身体を鍛えなおすことを新着したMに命令された007。たまたま本部から斡旋されたロンドン郊外の治療施設でボンドはスペクターの女殺し屋ファティマ、そしてアメリカ空軍に所属するジャックの秘密特訓を目撃する。そしてその数日後、ジャックは米空軍より核弾頭搭載巡航ミサイルを2機盗むことに成功する。
この事件を追うボンドは地中海へ向かい、世界的な大富豪のラルゴをマークする。ラルゴは表向き世界の海を豪華クルーザー「空飛ぶ円盤号」(クルーザー全長87m、アドナン・カショーギ所有)で移動しながら慈善活動を行なうビジネスマンだが、裏の顔は秘密結社スペクターのNo.1であった。そして彼のそばにはジャックの妹であるドミノがいた。Wikipediaから引用
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
今日のポエム
ボンドを救ったボンド
今回はネタバレ無しの解説モード。
いよいよクレイグボンド最終作と言われている『ノー・タイム・トゥ・ダイ』公開されるので、その便乗であまり語られない本作についてチョコッとだけ語ってみたいと思う。
ちなみに本作は公開当時コネリーボンド復帰作として売り出されていて、簡単に言えばそのときボンドを演じていたロジャー・ムーアのスーパーヒーロー感覚よりも、「ワルな大人」としてのコネリーボンドを欲していた人々のために彼が帰ってきた話題作であり、ファンムービーであり、お祭り映画だ。
シリーズに明るい者なら、本作は本家007シリーズの映画に絡んでいるイオン・プロダクション、ユナイテッド・アーティスト、MGMが関わってなく、その原作が『007 サンダーボール作戦』(1965) なのは承知で、その経緯が、イアン・フレミングが007を掌握している上記の三者とは別の映画化として企画を立ち上げ、ケヴィン・マクローリーとジャック・ウンティンガムと共同で作ったストーリーが出来上がりつつあった段階でフレミングが勝手に二人との関係を断って、小説として発表。原作者の一人ケヴィン・マクローリーから怒りを買って、何やかやで映画化にはなったが、再映画化 (あえてリメイクとは呼ばず) はしない約束を交わした&そこで使われた誰もが007で思い出すスペクターとプロフェルドの名称が2015年公開『スペクター』まで使えなくなった現状を作り出した作品でもある。
まぁ、この辺りはWikipediaで書いてある。
寄り道をすれば、そのため本作は007につきもののスタントシーン -- 当時007のスタント、特にチェイスシーンは最高のスタッフを揃えることができた -- も本家よりもパッとせず、セットも本家がよく使うイギリスのパインウッド・スタジオではないためにイマイチにスケール感が欠けている。
さて、ケヴィン・マクローリーがショーン・コネリーに働きかけて実質はマクローリーよりもコネリーが主軸となって映画化された本作は本家007にとっても重要な作品でもある。
でも、その前に作品の外側から語るべきだろう。
本作を撮ったのはアーヴィン・カシューナー。あの『スターウォーズ エピソードⅤ/帝国の逆襲』(1980) や『ロボコップ2』(1990) が思い浮かぶし、自分もそれだけしか知らない、という情けない状態でその二作だけで印象を語れば、クセが無くて腕の良い職人監督のイメージだ。『帝国の逆襲』では、前作のイメージを上手く受け継いてスケールアップさせたし、『ロボコップ2』では前作を撮ったポール・ボーハーベン監督の感覚を出来る限り再現しているからだ。
そんなカーシュナーが本作に取り込んだのはコネリーボンドの復権。具体的には007シリーズをいくつか撮ったテレンス・ヤングとガイ・ハミルトン両監督がやった雰囲気の再現だ。つまり、ヤングの「女たらしのセクシーなボンド」とハミルトンの「下品スレスレのユーモア」の両者の混合だ。そしてそれは上手くいっている。
-- 余談だが、本家007に対する具体的なオマージュとして、冒頭のミッシェル・ルグランのメロディが流れる救出シーンはどう見ても、あの『007 ロシアより愛をこめて』(1964) で、中盤の女性の殺され方はやはり『007 ゴールドフィンガー』(1964) が本作に表れている。
そして、観始めるとすぐに気が付くが、本作でやりたいこと、というよりもコンセプトがハッキリと見えてくる。
男性上位 (マチズモ) の象徴で今や古いタイプのキャラクターとなったボンドをどうやって、そのイメージを崩さずに現代に蘇られさせるのか。
本作の公開年は1980年代だが、その時点でコネリーが演じた1960年代での男の憧れだった「人を殺すのに躊躇せず、酒と豪華な食事を好み、美女は誰もが彼に抱かれたがる」キャラ設定だったボンドは当時の価値観から離れた時代遅れの古臭いキャラクターとなっていたからだ。ようするに浮世離れし過ぎてリアリティが無いのである。当然その批判は本家にも向けられている。
-- 脱線すると、荒唐無稽とか、幼稚だと避難されながらも1970年代から80年代前半を支えたムーアボンドはもうちょっと評価されてもいいと自分は考えている。
さて、そのコンセプトに乗って、 かつて男の憧れだったコネリーボンドが現在で活躍するとしたらどうなるか?
本作ではそれでストーリーが展開する。新しいMはコネリーボンドには否定的で、まさしく更生させようとするし、Q (らしきキャラ) は本家ならお馴染みの台詞「壊さないで返してくれ」などとは言わず、官僚的な新しいMの体制には馴染めずコネリーボンドが復帰したら彼にウキウキと秘密兵器のレクチャーをしている。変わらないのはミス・マネペニーだけ。
また、本家ではボンドはお約束として悪の大元締とギャンブルをするシークエンスがあるのだが、本作ではそれはルーレットでもバックギャモンでもなくエレクトリックな核戦争ゲームで表れる。
しかし、一番の改変は本家で言うところのボンドガールだ。本家ならどんな立場でもヒロインは最終的にはボンドの魅力に落ちるのだが、本作ではそうでないキャラが登場するのだ。
バーバラ・カレラ演じる女殺し屋ファティマがそれだ。
何しろこのキャラはかなりキレキレなキャラで、もちろんボンドとセックスをするのだが、「あたしが今までの女の中で最高だったと書きなさい!」とか叫ぶ設定。演じているカレラも楽しそうで、コネリーを食いかねない魅力を放っている。事実本作の前半は彼女が支えていると言ってもよい。
そして、このキャラの面白さ新しさはマチズモの象徴そのものだったボンドの状況に、マウントを取らせないボンドガールが誕生したこと。
そして、そのキャラ設定は本家007にも使われるのだ。ブロスナンボンドはそのすべてを本作のコンセプトを確実に受け継いで制作している。そしてそれは、次のクレイグボンドではコンセプトだけでなく根幹のドラマ(ヴェスパー・リンドとマドレーヌ・スワン)として組み込まれるのだ。
まぁ、その裏側は本作に関わっていたプロデューサーが本家のイオン・プロに入った事情があるからだが……このへんもwikipediaを読んでくれ。(今回二回目)
たけど、この「女性を翻弄するボンド」ではなく「女性に翻弄されるボンド」の改変が『007 消されたライセンス』(1989) から『007 ゴールデンアイ』(1995) の約6年間のブランクで消滅すると思われた長寿シリーズを復活させて新しいファンを獲得させた。
かくして、かつて男の憧れだったキャラは苦悩することで、皆に共感を得るキャラへと変貌した。
その契機をつくったのが本作といってもよいのだ。
つまり本作は、本家を救った分家!
DVDで鑑賞。