ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
ネタバレしても大丈夫な解説モード。
いまや過去になった話だが、時代劇作家吉川英治のこの原作は、かつて日本で忠臣蔵と同じくらいに人気があった小説だ。
どのくらいの人気だというと、当時の映画会社がこぞって映画にしたくらい。松竹にも東宝にも日活にも東宝でも!
でも、やはり『宮本武蔵』で誰もが思い浮かぶのが今回の主演:中村錦之助、監督:内田吐夢の『宮本武蔵』(1961)、『般若坂の決斗』(1962)、『二刀流開眼』(1963)、『一乗寺の決斗』(1964)、『巌流島の決斗』(1965)の東映版5部作だろう。
-- 余談だが、錦之助で誰もが思い出すのは、中村ではなく後世の萬屋だろうが、今回は中村で通します。
監督は内田吐夢。
その内田がコノ5部作を構想した1960年代にとっての日本映画界は興行こそまだ落ち込んではいないものの家庭では白黒テレビが一般化し、そしてカラーテレビの登場で映画上映との優位性が崩れかかる時期で不振の一歩手前の状況にあった。
そこに脅威を感じていた内田が打ち出したのが国民的小説である『宮本武蔵』に当時まだ人気だった東映の映画スターである錦之助を主演にあてて1年間に1作づつ映画にする、この企画である程度の興行収入が見込める東映にとっても5年間は撮り続けることが保証できる内田にとってもWin-Winな関係で撮影が出きる環境を整えた。
なのだけども、自分はどうもね……。
もちろん、コノ5部作は日本映画を代表する大監督が撮った日本映画史に残る作品ないが間違いないのだが、最初はコノ5部作の出来は充分に認めても、どうもチョイとノレ無いところがあって自分にとってはそれほど重要な作品でもない。
-- それどこか、内田作品なんてコレを入れても4作品しか観ていないの。
そして、コノ5部作がノレなかったその理由を一言でやっちまうと「説教くさい」。
具体的には感情を台詞して喋ってしまう。錦之助武蔵はペラペラと喋る。
コノ5部作は物語をそうゆう感じで進める。
自分は、感情をペラペラと喋っちゃうところがどうにも苦手で、小説での地の文(台詞以外の説明的な文)を映像でやる事についてはある程度許しているつもりだが、コレはさすがにやり過ぎではないのかと。
いや、もちろんコレが後『巨人の星』の星飛雄馬などのジャパニーズオタクキャラクターに相当な影響を与えているのは理解している……つもりよ。
ただ、歳を重ねるにつけ、どうして内田がそうゆう構成&展開にしたのかの意図はうっすらながらも理解はしているつもりだし、どうして武蔵が中村錦之助したのかも理解している。
ぶっちゃければ、コノ5部作は講談口調で物語が進むのだよ。
講談とは、寄席の演目のひとつからはじまったもので、歴史的な偉人や歴史的事件を面白く語る芸であり、物語は誰もが知っているのに大衆が惹かれたその魅力は落語と同様に語り手の語口・口調にある。
具体的にはイントネーションにある。ただ情報を伝えるナレーションの平板さとはまったく違うのが講談口調。NHKの大河ドラマなどでたまに芝居ぽいナレーションがあるが、アレをより洗練させたモノと考えてもいい。
イントネーションなので、自然体の演技よりも噺家や講釈師のテクニックが重視されるので、内田には歌舞伎出身でその基礎がある錦之助の喋りが必要という計算があったのだと推察できる。
そういった講談口調は現在のエンタメでは廃れた感があるが、ところがドッコイ完全には滅んではいない。ジャパニーズアニメーションではしっかりと生き残っている。前述した星飛雄馬も含めてアノ辺りのキャラクターの喋りは大体が講談口調だし、特に昨今のアチラのトレンドの中心にある◯◯風ファンタジー、通称「なろう系」アニメは声優の喋りテクニックを重視した作品が人気が高い。『無職転生』とか『薬屋のひとりごと』などはそれが作品の根幹&魅力になっている。
そうした作品群の源流にあるのが今回の5部作。
さて、内田が錦之助に感情をペラペラと喋る講談口調にした意図は宮本武蔵という剣に生きた男の矛盾を描くことしかない。
コノ5部作についている評価に「スタイリッシュ」な映像があるが、スタイリッシュといえば、たまに内容に関係なく映像技工に走る監督さんがいるが、内田吐夢は古いタイプの映画人なので、映像技工を情念で表現する。
そしてココでのスタイリッシュとはズバリ「死」。
コノ5部作は2作目の『般若坂の決斗』から血が吹き飛ぶ残虐なカットが鮮烈にはじまる。
-- 余談だが、『般若坂の決斗』公開の1962年にアノ黒澤明監督作『椿三十郎』が先に公開されている。しかし、『椿三十郎』はモノクロなので『般若坂…』がカラーの最初になる。これが後の映画 子連れ狼シリーズの血みどろ殺陣に影響を与えているのはたやすく想像できる。
そして、4作目の『一乗寺の決斗』。
ここでは、対決が残酷すぎるためか夜明け前という設定でモノクロで撮られているが夜が明けて、つまりカラーになって鮮烈な赤が目に飛び込んでくる段取りになっている。
『巌流島の決斗』は今更語る必要もないだろう。
だから赤=血=死 なイメージをここでは観客に与えようとしているのは確か。
こうして、講談口調で武蔵が感情を吐露しつつ血を印象づける演出なのは、精神的成長と実戦を経て強くなってゆく剣豪宮本武蔵の矛盾を描くことしかない。
強くゆくにつれ剣のように研ぎ澄まされた心が、初志の頃に決意した事と、勝つために非情な事をしていた半生とが乖離している現実に気がつく。
そうではなくては、ラストの台詞はそうならないはずだ。
この先をもう少し描くと悟りの境地になるのだけども、そこまではいかない。
それは武蔵を明るいヒーローとしてではなく、かと言ってダークヒーローとしも描かずに陽と陰が入り混じったキャラクターとして描き抜く。
強くて、つねに迷う。ソレが内田吐夢がイメージした武蔵。
そのアンビバレントさが今なお、数々の映画化の中でもコノ5部作が人々から忘れ去られない根強い人気の根幹なのだろう。
‐‐ また余談だが、時代小説家の海音寺潮五郎が語るところによると吉川英治が『宮本武蔵』を書いたきっかけが作家直木三十五 -- あの大衆小説の直木賞はこの方から -- が武蔵はそんなに強くなかった論を張っていて、強い派の吉川を焚き付けて討論に持ち込もうとしたが、吉川はそれには応じず、代わりに書いたのは『宮本武蔵』だったそうな。
VODで鑑賞。
参考
海音寺潮五郎著 史談と史論