ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
ヘンに癖が強いからか、それともエンドロール後の衝撃(?)が強すぎてなのか『ポッピンQ』評判が芳しくない。しかし、個人的にはこれを残念作としてはみてはいない。たしかに惜しいところはあるし、『どれみ』や『プリキュア』のお約束を知らないと楽しめないだろうし、それにここではそれらのファンが求める「かわいさ」「かっこよさ」の二つが抑え気味なので、どこを見所にしてよいのかが分からないからだ。
しかし、描かれているのは野心的だ。何故ならこの映画はアニメにしては珍しく愛を使わずに自立を描いたストーリーだからだ。
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この映画はとりあえず東映魔法少女モノの体をとっているために本質が見えにくくなってはいるが、思春期にある「いらだち」を描いている。たとえば、例として同じく珍しく思春期の主人公を描いた『千と千尋の神隠し』に出てくる顔無しは、『ポッピンQ』のポッピン族の同位体と同じだ。
予告編より
『千と千尋』で顔無しが千の「いらだち」だと分かるのは千が顔無しの対して抑えていた感情をぶちまめるシーンがあるからだ。
『ポッピンQ』では主人公を含む5人の仲間の「いらだち」を同位体に言わせているからすぐに分かるだろう。
『千と千尋』ではその「いらだち」をどう乗り越えるのか?それは千がハクを助けるために自らの意思でハクに憑かれた呪詛を解く。そこで顔無しがいなくなるのは千が千尋に戻った瞬間であり、つまり千尋は自立(への道)をしたから。
『ポッピンQ』で「いらだち」を乗り越えるのは5人でダンス!だ。ここが『千と千尋』との違いではあるが、ここでも5人の自立(への道)が表現されている。何故ならその前に主人公の伊純に「ある事」をさせてソレを克服した彼女が「ダンスをしよう」という意味が自立を示しているからでもある。
自立の定義が『千と千尋』と『ポッピンQ』と微妙に違うのは気が付くかもしれない、『千と千尋』では千尋とハクが愛で「ハクと共に」自立をしたのなら『ポッピンQ』は友情で「5人と共に」自立をしている。
これは簡単にいうと同胞だと自分は考えている。映画『海賊とよばれた男』で歌っていた「はらから」だ。それでは、その「胞」は何か?結論をいうと「女の子」だ。
これも映画でラスボスが動機を喋り、伊純にある魔法(?)をする事から導けられる、感じるられるようになっている。
これは東映魔法少女がもち続けた「伝統」の様なモノなので、知っていれば誰にでも分かる。「普通の女の子が特別な力を持ったらどうなるか?」をずっと描いてきたのだから。だからこそ魔法少女は何時までも途切れなく続いてきたともいえる。シンプルな強さだ。
『ポッピンQ』で「かわいさ」「かっこよさ」が抑え気味なのは、そんな魔法が信じられなくなったミドルティーンに「女の子」としての同胞を意識させることで自立の素晴らしさを謳う驚くべきことをしているのだ。
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