ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
高知の田舎町で父と暮らす17歳の女子高生・すずは周囲に心を閉ざし、一人で曲を作ることだけが心のよりどころとなっていた。ある日、彼女は全世界で50億人以上が集うインターネット空間の仮想世界「U」と出会い、ベルというアバターで参加する。幼いころに母を亡くして以来、すずは歌うことができなくなっていたが、Uでは自然に歌うことができた。Uで自作の歌を披露し注目を浴びるベルの前に、ある時竜の姿をした謎の存在が現れる。
シネマトゥデイより引用
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
今日のポエム
現代と民話
今回はネタバレスレスレの解説モード。
本作は細田守の集大成と言っても良い。『時をかける少女』の恋模様、『サマーゲーム』の一族、『おおかみこどもの雨と雪』の母と子、『バケモノの子』の父と子、『未来のミライ』の子と家族、等々。細田監督がずっとこだわりつづけて来たモチーフがここにもあるからだ。
それは「絆の力によるコミュニティ」だ。
もう少し詳しく書けば「どんなひ弱でも人は誰かと絆を繋ぐことで強くなれる」。という信念とも言ってもよい。
まさにその「絆の力によるコミュニティ」の集大成が本作。
さらに本作では、それに少しプラスして「絆とは何か?」を描いているのだが、それは後述するとして、それを含め細田監督の思想とは何なのかを自分なりに開陳してみたい。それは一作ごとに賛否両論になってしまう監督の本質を語ることにもなるからだ。
早い話は細田守とは保守思想の持主だと言うことだ。
念の為に釘を刺すと、ここで言う保守とは現在のカルト化された存在ではなく、原初である「リベラルの暴走に歯止めをかける」という役割りを与えられた保守である。つまり保守はリベラルの根幹にある理性に懐疑的な立場をとっているからだ。
それでは理性とは何か?を雑に語れば、それは「ある程度の教養を持っていれば、それを架け橋にして違う世界の人々ともコミュニケーションが取ることができる」という考えだ。
理性についてはこの記事にも書いた。
だが、そもそもそ理性というものは存在するのか?あるとしてもそれが誰にでも使う事ができるのか?それらに懐疑的な立場であり、その代わり彼らが頼みにしているのは、宗教・慣習などの歴史的蓄積なのが保守だ。
もちろん理性が無かったら、宗教・慣習の束縛(または抑圧) から開放された自我と自立は無かっただろうし、そして人権の概念も誕生しなかっただろうし、もちろんその下にある多様性も無かったのは間違いない。
しかし保守は亡くならなかった。リベラルの対立する概念として残った。宗教・慣習が無くならないのと同じだ。
それではどうして細田守が保守思想なのかと云えば、彼が信じて強烈に推す「絆の力によるコミュニティ」には自我と自立は邪魔だからだ。絆などと定義づけが難しい、自然と超自然の間の出来事の範疇なのに対して、理(科学・学問)で他を説得するリベラルとは真逆だ。コミュニケーションとしてのプロトコルのやり方がまったく違う。だからリベラルの言葉からそれに近いのを選べは、それは「連帯」になる。それなら自我と自立は担保されるからだ。
だから細田作品は保守思想なのだ。
なので、終盤で一番盛り上がった後に起こるアノの光景を主人公と一緒に見ていたはずの友人等がそれについていくこともなく、駅まで送ったおばちゃんたちも心配しただけで見送り、そしてようやく見つけた子供等と親が「たまたま家の外に出ていた」という偶然性も含めて、あまりに強引&蛇足としか思えない展開になるのは弱かった主人公が、他との「絆の力」で元に戻り、さらに竜本人と絆を結ぶことで、弱かった彼にも、‟その力”を与えることで強くなる。というシュチエーションをやりたかったがためにどうしても必要だったと言うしかない。理屈はどうだっていい。それが細田監督にとっての正解・正論なのだから。
余談だが、そういった傾向は細田監督以外にもいる。自分が思いだす限りなら神話的な視点でドラマを作るザック・スナイダーなどは細田監督と同様に保守思想の持主だ。(画像はIMDB)
ただアプローチは若干に違う。ザックが神話(英雄)なら細田がやっているのはさしづめ民話(昔話)だ。もちろん神話も民話も自然と超自然をキャラクター化したものなので元は同じだ。
ザックが現代に神話的説話を持ち込もうとしているのに対して、細田は現代に民話的説話をやろうとしているとも言っても良い。
さて、後述の細田作品における「絆とは何か?」に入る。しかし、これは本当にあっさりしたモノ、簡単にいって「見守る」。それだけだ。ただ『おおかみこども』以降に細田作品に頻繁に使われるようになったソレはいつもクライマックスでリフレインされる。本作でも主人公が気がつかないだけで、その痛々しさを克服させるきっかけを見つけようと多くの者に見守られていたし、そして主人公を竜の痛々しさを直感として感じて竜を助けようとする構造と展開になっているからだ。
本作ではそれらを有無を言わさずに圧倒するかのような映像と演出で魅せる!
これぞ映画の快楽!
ここにリベラルが説く理の視点はまったくない。だから現実と照らし合わせてどうこう言うのは無意味。民話なのだから理は捨てろ!
内容がどうであれ、本作の凄まじさは物語ではなく映像(語り口)にある。
個人的には今年のベスト。
劇場で鑑賞。