ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
今日のポエム
心地よさだけが感動ではない。
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
そして、今回は
『ゲド戦記』
そして、キーワードは。
ボーイミーツガールの意味!
今回もネタバレはなし。だけど個人的な愚痴モード。
今となっては旧聞に属する話だが、あえてその話題をすると、このコロナ禍で、あの世界のスタジオジブリが、『風の谷のナウシカ』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、そして今作『ゲド戦記』をシネコンで上映すると発表したので、そういえばナウシカを劇場で観たことが無い自分はこれを機に劇場でも観ておこうと思い、昼間いそいそと出かけていったら……
満席。
それじゃ仕方ないと思い、最終上映を観ようとジブリ以外の作品をたったひとりで観て、「中々良かったな」と感じて再び券売機に立ったら……
満席。
こうなったら意地でも何か観てやる!とか思うに決まっているじゃないですか!!
どないなっとんじゃ。タイムラグがあるとはいえ10分前じゃないぞ、50分前だぞ!他に空いている何だ?……『ゲド戦記』が開いているじゃないか!……買いました。そして、自分を含めて3人だけで観ました。おそらくあの二人の女子は岡田准一のファンだったのに違いない。
一応、『ゲド戦記』も公開当時劇場で観たことはあるのだが、その時の感想は……
「まあ普通」。
そして、今回観直した感想は「まあ普通」。変わらん。
でも、よくあった批判、「物語が分かりにくい」は、はじめて観たときから感じなかった。少なくとも『千と千尋』や『崖の上のポニョ』よりはわかり易い。なのにその2作に比べれば不評という理不尽な位置にあるのがこの作品だ。
その理由も公開当時、原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンが完結に評している。「ディテールが弱い」であり、「キャラクターの描写が弱い」であり、「解決が安易」のドラマ作りおける重要な三点だ。要するにケチョンケチョンに批判している。その評で、原作に東洋の世界観を取り入れて書いているフシがあるル=グウィンにとって海外ではアニミズムの映像作家として評価されている宮崎駿が監督していない、また、その影響も感じられない宮崎吾郎監督のセンスの無さに肩を落としたのは容易に想像はできる。
もちろん、これは一般的(批評家)としての評価であって、コアなアニメファン、いわゆるオタクが好んでよく観ているファンタジー世界におけるボーイミーツガールとみれば腹も立たないし、軽い作品としてなら「これもアリ」だとは思う。要するに心地よい後味になっている。(画像はimdb)
でも、それはジブリという名で人々が期待する宮崎駿の味でもないことは確か。だって宮崎駿がボーイミーツガールをよく使うのは作品世界への道標と使っているから。つまり、宮崎本人が娯楽についていつも言っている、「入口の間口は広く、敷居も低いが、入っていったら出口がちょっと高くなっている」を実践しているのに過ぎないのだから。ゲスい言い方をすれば宮崎作品とは観終わった後でエライ人々があーだこーだと考察してくれる作品群なのだ。そして宮崎駿にとってボーイミーツガールはその複雑に成りかねない彼の脳内設定や展開をスッキリとさせて世間というお客様みせるために設けられるのに対して、『ゲド戦記』では、それがそのまんまで使われているからだ。
だから、この作品を最初に見て感動したのに14年後に観直して、そんなに心に響かなくても落胆する事もない。それはあなた自身が成長したことを意味するからだ。フィクションとはその時々での観た人の心のリトマス試験紙みたいなもの、。反応したり、しなかったり。そんなもんだ。
もっとも、繰り返しになるが、(アニメだけではなく)反応の変わり目が少ないコアなファンが喜んで観てくれる作品群、いわゆるファンムービーはたいがいがそんなつくりになってもいる。ちょっとした工夫でボーイミーツガールならぬガールミーツガールとかボーイミーツボーイ仕立てで、さらにボーイミーツガール&ガールとかボーイ&ボーイミーツガールとかあるくらい -- だから、キャラクターデザインも設定も極端にしてある -- だし、そのため異性としての役割を同性に当てはめているだけで根本はボーイミーツガールと変わらない。そこから一歩何かが抜きん出なければいけないが、多くのそういった監督が、それ以上のことが今でもできないように、『ゲド戦記』もやはりそこまではいってなかった。ようはそうゆう事なのだ。
補記:でも、自分もいわゆるオタクなのでそうゆう作品も好んで観ているのも確か。あと、このあとジブリ4作品はすべて観れました。
劇場で鑑賞