ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
ワイオミング州の雪深い土地、ウィンド・リバー。そこはネイティブアメリカンの保留地であり彼らが追いやられた地だ。そこで発見されたのはレイプされた女性の死体だった。派遣されたFBI捜査官のジェーン・バナーは新人だが聡明な女性でもあったので、不慣れなこの地の捜査に発見者であり、合衆国魚類野生生物局の職員であり、凄腕のハンターでもあるコリー・ランバートの協力を仰ぎ、彼もそれを了承する。そして捜査を進めてゆくうちに、この地にか存在しない闇と対峙してゆくことになる。
結論からいうと。傑作!である。今回はそれを前提にテイラー・シェリダンのフロンティア三部作の共通項についての話をしてみたいと思います。
突然だが、古典的な西部劇とは何か?自分としてはこの3つだ。
A:フロンティアが舞台。
B:コミュニティ(共同体)を中心とした物語。
C:裁き(ジャッジ)は公平であって私怨があってはならない。
西部劇ファンから異論がでるだろうけども、こう考えている。
現代が舞台だと A は描きづらい。これは今はSFの領分になっている。だとしたら残りは B と C だが、1970年代以前ならまだしも2010年代までなるとアメリカン・ニューシネマとマカロニ・ウェスタンさえもかなり先に通過したし、やはりこれも心許ない、しかし、あえてその心許なさを指標にすれば『ウインド・リバー』には B と C が、そして A の領域もかろうじて入っている西部劇なのだ。
取りあえず、A の部分は後回しにして B から進めると、これは直観としてすぐに分かる。まず、ウイング・リバーという地が防寒の装備なしで出歩くと「肺胞の凍結による窒息死」で死亡してしまうのだから、人には優しくないのであり、ネイティブアメリカンの人々も、この地の娘と夫婦となったコリーも本来ならここには合わない人間だ。政府の政策でここに無理矢理に住まわされている状況なので、ここで人々が「生きてゆく」自体がすでにコミュニティを形成しているといってもよい。だからジェーンの「運がよかった」の台詞にコリーが反論できる。
C はコリーの設定に捻りを加えつつも、そこも押さえている、彼がジェーンに協力するのは彼自身が同じ体験をしていて、かつ今度の被害者が彼の友人だからだが、実際は彼の事件ではないし、その犯人はコリーとは関係がないだろう。「だろう」の部分は後回しにして、ここでは西部劇 -- そしてアクション映画で、 -- ではおなじみの「悪党は先に銃を撃つ(仕掛ける)」のお約束を描写しているので、裁きは公平になる。だからその後のアクションも無理がないし、何よりも最後に裁きを下すのはコリーではなく、ウインド・リバーという地だからだ。
ここで A に入る。領域とは、そして「だろう」の部分はフロンティアだ。普通それは広大な大地を指すし、だからそこに法の支配が及ばない、つまりフロンティアとは「無法」のことをいう。やっかいなことに古典的な西部劇では助けがこない広大な大地で身を守るのは自分しかいないのだが、この映画の「無法」に相当するのは広大な土地ではなく、国が作ったシステムであり、それが彼らを苦しめるという構図だ。この映画の監督でもあり『ボーダーライン』と『最後の追跡』の脚本でもあるテイラー・シェリダンが題材にした国のシステムとは『ボーダー』が法律であり『最後の』が金融なら、この映画にあてられたのはネイティブアメリカンをこの地へと追いやった政策そのものになる。
つまり、テイラー・シェリダン監督の西部劇スタイルのドラマで描こうとしているのは「アメリカが美徳としている社会性や道徳観を蝕んでいるのは、現実に機能している国家システムそのもの」なのだという主張であり、そのまなざしは、そうした目にあった人々への弱さに向いている。これは表面はタフガイを備えている主人公であるコリーにあえて弱い部分を強調させて描いているところからも見えてくる。そしてそれはシステムなので簡単には倒せず観客には溜飲が下がらない感情にとどめているのも確かだ。現代の「曖昧な悪らしき何か」は銃では撃ち抜けない。だから「社会が変わらなければ自分が変わる」しかないが「それでいいのだろうか?」と強く問いかける。これはそんなドラマだ。
マーティン・マクドナー監督『スリー・ビルボード』で描かれた「行き場のない感情」の視点という同質のドラマが『ウインド・リバー』にもある。背景にあるのはやはりイラク戦争なのかもしれない。アメリカンニューシネマがベトナム戦争と切り離されないように、システムという見えない何かに翻弄される社会や人々を浮き彫りにしたのがあの戦争だったのかもしれない。
補足:今の人が知っている西部劇ならクリント・イーストウッド作品があるが、アレは異例かつ孤高でもあるために今回は意図的に外しました。