ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
今日のポエム
ジャングルで生き残れるのは誰だ
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
そして今回のキーワードは。
理不尽な世界!
小説家出身の S・クレイグ・ザラー監督の本作はネットの評判から、観る前から、気に入るだろうな。と予感をしつつ観たら。今年ベスト級の面白さだった。
物語は違法捜査をマスコミに放送されて停職をくらった二人の刑事が、人脈を使って犯罪を犯した悪党から現金をかすめ取ろうとするのだが……と手垢のつきすぎた題材なのだが、切り口・見せ方を変えるとこうも新鮮に映るのか。を改めて思ったくらいだ。
とは、いうものの、この魅力を文章に書くのはちょっと難儀なところもある、好意的な評価だと前述したとおり「新鮮さ」を感じる人もいるが、批判的だと「グロテスク」であり「冗漫だ」と感じる人もいるし、そう感じてしまうのも当然かもしれない。
また人によっては「70代アクションぽい」とか「『悪の法則』(2013)ぽい」とか「タランティーノぽい」とか「レオーネぽい」とか色々あるけども、それに自分が付け加えるすれば『HANA-BI』(1998)以前の北野武監督作ぽい。というところか。特に唐突な暴力の出し方にそんなところを連想させる。
しかし、北野監督のその発想の出所が漫才なら、本作を撮ったザラー監督はすでにキャリアとして固まっている小説家からの発想なのだという違いはある。
漫才の発想とは、例えば「道端にバナナの皮が落ちていて、それを避けようとヒョイと跳んだらよろけてしまい、結局はバナナの皮を踏んでスッテンコロリン」としてしまうのに対して、小説家の発想とは「道端のバナナの皮でスッテンコロリンする直前までその人物が何を考え、どんな気持ちだったのかをネチネチと文字で描写してゆく」という違いがあって、ザラー監督はまさしくそれになる。これは通俗小説の典型的な物語進行と同じだ。
だから一見、本作での本筋とは無関係な女性銀行員の描写がその瞬間に襲われるまでが必要だし、それでザラー監督がやりたいことが見えてくる、つまり剥き出しの暴力だ。
フィクションとして暴力を描くと、善の側だと悪を倒すカタルシスとして、悪の側だと破滅へのカタルシスとして描かれるし、その中間だとノワールの雰囲気で酔わせることで観ている人達の感情を収めようとするけど、ザラー監督は「暴力だけを抽出したい」願望がありそうだ。「暴力とは善悪に関係がなく、誰にでも公平に襲い掛かる存在」としてだ。おそらくは美意識・美学なのだろう。だから一見「冗漫」に感じるところが監督にとっては大事なポイントになってくる。
そうゆう「襲いかかる理不尽」という視点からいえば、その直系は『エクソシスト』(1973)や『恐怖の報酬』(1977)などを撮ったウィリアム・フリードキンだろう。おそらくザラー監督はフリードキン作品が大好き!か、逆に大嫌い!かのどちらかだ。そうに決まっている!(画像はIMDb)
とはいえ、フリードキン的な暴力だけではなく監督らしい作家的で教条的なところもある。それを簡単にまとめるなら「理不尽な暴力の世界では力のある者ではなく、知恵のある者が生き残る」ところだ。もっともそこは、自分がザラー監督の『トマホーク ガンマンVS食人族』(2015)を観た影響もあるのかもしれないが。でも、本作でも生き残るのは暴力だけでななく知恵のある奴が生き残るところは同じだ。知恵のある奴 -- 小狡いともいうが -- は物事を一歩、俯瞰して見ることができるからだ。(ヒント:ゲーム)
あと、やはりザラー監督もアクションファンのために一種のくすぐりを用意していて、それが本作の見所のひとつになってもいる。特に前半のメル・ギブスンと上司とのやりとりは80年代アクションに慣れ親しんだ人なら( ̄ー ̄)ニヤリとするのは間違いない!
とまぁ、本作を観る前の心構えとしては、冗漫さは本作の要だから許容しなさい。と唐突なグロテスクには注意しろ。を念頭に置いておけば充分に楽しめるし、それに不安を感じたのなら、観ない方が吉!
でも、すべての暴力映画はフリードキンに繋がっているとも世の真理だろうし。
VODで鑑賞。
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