ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
今日のポエム
そして、男は去る
映画とはポエムです!ポエムとは映画でもあります。それでは大いにポエムちゃいましょう!
そして今回のキーワードは。
意外に難解!
今回はネタバレチョットだけ有りの解説モード。
本作はノワール映画だけではなく、映画史に残る名作であり、主演俳優のアラン・ドロンの代表作でもあり、映画監督ジャン=ポール・メルヴィルの最高作だ。
そして、本作の主役ジェフ・コステロのキャラクター造形他、後世に与えた影響ははかりしれない。それは膨大なものになる。
そんな中で、久しぶりに観直して語られ無いところで、あらためて自分が気がついたのを出せば、ギャヴィン・オコナー監督『ザ・コンサルタント』(2016)だ。主人公に自閉スペクトラム症の設定で、何かをする時にパターン化された動作をするところなどは本作でのコステロが帽子のひさしにこだわるシーンのイメージを連想させる。あきらかに本作から影響を受けたのは間違いはない。(画像はIMDb)
-- 実はこの作品を先に観ておくと本作がすんなりと理解できるのだが、個人としては絶対にオススメはしない。どちらかをすでに観てしまった者は最低3年は二作どれかを観ないこととして注意を促したい。
物語はシンプルだ。殺し屋のコステロが、先にアリバイを作って夜のナイトクラブの雑踏中で依頼どおり、ある人物を殺害するが、クラブの女性ピアニストに直後に見られてしまうが、その場を立ち去る。そして警察の調書がはじまり容疑者としてコステロもナイトクラブの従業員による面通しが行われるが、はっきりと顔を知っている女性ピアニストは何故か「知らない」と証言するのだが……。
シンプルなのだが、実は本作は難解な作品だ。その本当の答えはメルヴィルの中にしか無い、という意味でいえば、例えば庵野秀明監督の『エヴァゲリオン』と同じくらいに難解なのだ。
具体的には、「どうして、ナイトクラブの雑踏の中で殺しに向かうコステロに誰も気がつかないのか?」とか、最大は「ラストシーンのコステロはあんな最後になったのか?」等々だ。
しかも、メルヴィル作品独特の演出である「やりたいのだけを丁重に描き、作劇上に必要であってもやりたくないものはあっさりとやる」という「何かを削った感覚」をスタイルとしているので、はじめてメルヴィル作品を観た者は、スペクタクルもミステリアスもサスペンスも足りない感覚のその印象を「坦々」としか感じないかもしれないし、そこに、ある種の味を感じる者もいるだろう。つまり演出にクセがある。そのクセが、さらに本作を難解にしているところがある。-- ただ撮影監督アンリ・ドカエは本作で素晴らしい仕事をしている。画の色味具合いといい、カメラの動きに無駄が無い。特に中盤のコステロと刺客との銃の抜き打ち合いのシーンは簡単には模倣できないものになっている。だから、映画を見慣れた人ほどその魅力に魅了されるのは間違いない。
しかし、実はメルヴィル自身は、本作について、ノラ・ノゲイラ著『サムライ ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』で語っているので、それを読むと、それなりのヒントは得る事はできる。
殺し屋とは、その性質上、当然ながら分裂病患者だ。シナリオを書く前に、分裂症や、孤独、無言の行動、自閉について入手できるあらゆるものを読んだよ……。
『サムライ』は偏執狂によってなされた分裂病患者の分析なのさ。あらゆるクリエイターは偏執狂なんだからな。
私の映画では、死神はカティ・ロジェによって擬人化されている……ドロンが惚れることになる女だ。
ノラ・ノゲイラ著『サムライ ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』
どうやら、やろうとしていたのは、アラン・ドロンが演じたコステロは、一見複雑にみえる人の動きをパターンとして見抜き、その隙をついて行動できる男だが、そのパターン外の行動で出くわしたのが、女性ピアニストだった。つまり、コステロが予測したパターンからのイレギュラーであり、予想外であり、それを別の言い方に直せば「混沌」なのだ。
だから、コステロがピアニストに惚れるのは女性だからでも、美しいからでもなく、はじめて出会った「混沌」だから惚れるのだ。そしてああなるのも……。
何それ?とか感じたただろうが、そう解釈するしかないのだ。
ここで前述した『ザ・コンサルタント』主人公も一件複雑な数字の羅列からパターンを探し出す能力を持っていたし、そんな彼が美しさを見出したのは従来の絵画の構図の美しさではない、一見無秩序に見えるアクション・ペインティングのジャクソン・ポロックの絵だったのを思い出してもらえれば合点がゆくはずだ。(画像はIMDb)
つまりは本作のコステロは「混沌」と出会って、それまでの「孤独」から開放されて、生まれてはじめて幸福な気分になれたのだ。
何それ?とは感じるだろうが、そう考えなければ、このドラマの落し所はないのだ。
もっとも、無理矢理にそう考えても、どうしてこんな妙なドラマにしたのかは分からない。これが映画監督ジャン=ピエール・メルヴィルの美学か心象風景なのかは分からない?そして、みんなに分かってもらえなくても、たった一人に分かってもらえればいい。という境地なのか……。
やはり、その答えは、今は亡いメルヴィル自身の中にしかない。
ひとつ言えるのは自分がはじめて観たドロンが演じていたコステロのカッコ良さとは、虚無(ニヒリズム)では無い事は確かだ。別の何かだ。
VODで鑑賞。