ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
天才剣士・高倉信吾は、三年の武者修行のなかで、三弦の構えという異能の剣法を会得し、故郷に帰ってくる。つかのまの平和の日々。しかし、ある日、父の信右衛門と妹の芳尾が隣家の池辺親子に惨殺され、死に瀕した信右衛門から自らの出生の秘密を聞いた時から、信吾の悲劇の命運は回り始める…。
Wikipediaより引用
今回はネタバレスレスレの誉め解説モード
たまたまBSで放送されていたので再鑑賞したのだが、最初観たときはそのストイックすぎる美しさに惹かれたが、何度か見直すうちに本作のヘンテコさとそこから滲み出る美しさを感じるようになったので今回はそれを思い出しながら書いてみたい。
映画は大映!(いきなり反転)
さて、結論からいえば、本作は難解な作品だ。ちまたで難解な映画といえば、『2001年宇宙の旅』とか、『マルホランド・ドライブ』とか、パゾリーニ作品だとか、アラン・ロブ=グリエ作品とか、だろうが、本作も思っている以上に難解な作品になる。もちろんボーと観ているのなら主演の市川雷蔵の色香と監督の三隅研次の映像美を充分に楽しめるが、それでは、物語は何なのか?何のドラマなのか?などは薄霧に遮られているかのようにボケているのだ。
つまり、前にココでやった『サムライ』と同じです。
でもまぁ、本作から連なる三隅&市川コンビによる。剣シリーズと呼ばれている『剣』(1964)、『剣鬼』(1965) と本作以前に三隅が撮った『座頭市物語』(1962) を観ていれば、三隅のイメージしている「剣の強さ」が見えてくる。何なら『座頭市物語』だけでも解釈はできる。
彼らの剣の強さは、何かかが欠けているからこそ強い。三隅が描く剣士はそれだ。例えば、座頭市は目が見えないが、微細な音を感じ取って相手の気勢を制して斬ることができるのと同じ。
欠けているからこその強さ。それが、三隅の思想か哲学なのだろう。
そして本作では、それを一歩進めて美まで昇華した。もちろん、それをちゃんと画で示しているからだ。
実は、Wikipediaの引用からさらに物語を付け加えると藩から出た信吾は道中、追手から逃れようとする武家の姉弟と出逢うのだが、その姉は弟だけでも逃がすために服を脱いで全裸で追手と立ち向かい、最初は躊躇していた追手の手にかかって斬られて死ぬのだが、信吾はその光景を美しさとして鮮烈に憶えることになる。
その光景こと画づくりとは、まず信吾が遠くから斬られる姉を見ていた視点、これは自分等からの客観的な視点でもある。
そして別のシーンの信吾の回想、つまり心の視点からは、その姉は真正面からの視点になっているからだ。
余談だが、これを踏まえると信吾が我流であみ出した剣術の突きと同じアングルのカットは信吾と敵対した相手の視点と同じなのは直ぐに察しができるし、それが敵対者に対して信吾がどう見えている、どう感じているかが直感として解り、それを三隅が意図として演出しているのも解る。
その理解にたてば三隅が本作で何をやろうとしていたのかは自ずと見えてくる。
高倉信吾という男を日本刀として描いていると。
刀とは、熱した鋼を最強の姿にするために槌(ハンマー)で叩いて鍛煉(Forge)して不純物を取り除く。
信吾にとっては家族や男女の情は不純物。だから叩いてソレを吐き出す。そうしているうちにやがて高倉信吾という見事な刀が誕生……。
事実、後半にその刀は完成し……なる。ある人物を文字どおりに真っ二つに切り裂いているのだから。
でも、ラストシーンを観ると「それは本当に完成したのか?」という疑問が湧き上がる締めになっている。完成直前にひとつふたつの不純物で折れてしまったとみるべきか、完成したからこそ折れる運命だったのか……はどうも自分達、鑑賞者に委ねられているらしい。三隅にとってはそこまでの道筋なのが大事なのであって結果はどうでもよいことだと自分は考える。
ちなみに自分の解釈は前者だ。
どうであれ、人生を刀に見立てて、それが美しければ良いだけなのだから。
そしてそこから、後の『剣』と『剣鬼』が何のドラマなのかも見えてくる。
CATVで鑑賞。