えいざつき ~元映画ブログだったポエマーの戯言~

批評というよりも、それで思い出した事を書きます。そして妄想が暴走してポエムになります。

『ブレードランナー 2049』の 歪で優しい「愛(AI)」

ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略][加筆修正訂正有]

 


映画『ブレードランナー 2049』予告

www.bladerunner2049.jp

 

 

こちらの続きになります。

eizatuki.hatenablog.com

 

ブレードランナ』(以降、『ブレラン』と表記)の続編『ブレードランナー 2049』(以降、『2049』と表記)は切ない!につきる。

 

傑作!と断言できないのは。『ブレラン』で描かれたレプリカントの設定が『2049』では変更されているのだが、それが分かりずらいところ。だからレプリカントが反乱できない設定なのは冒頭の説明 ₋₋それと目の前で仲間が殺されているにも関わらず、ただ涙を流すラヴの描写で₋₋で何となく分かるのだが、やはりピンとこないから。一応それを前日談として説明している動画はある。↓ 


【『ブレードランナー 2049』の前日譚】「2036:ネクサス・ドーン」

 

しかし、こうゆうことは映画の中で描くべきであって上の動画を観ていない者にはただノイズにしかならない。前出した仲間の死を見ながら抵抗もできずに立っているラヴが他のシーンでは平然とレプリカントを倒しているし。Kの上司であるマム(ジョシ警部補)が事態の深刻さを憂いているのは滑稽にしか見えない。

 

そしてレプリカント設定の変更にともない『2049』は『ブレラン』と違って世界観が変わっている。簡単にいうと人間が極端に少なくなっている。この映画で活動するのはほとんどがレプリカントであって人間の影が薄い。もしかしたら人間として出演しているのはウォレスとガフしかいないのではないのか?この妙な世界観は、おそらくレプリカント古代ローマの奴隷のような設定にしてあるのからだろうが、これがまたピンとこない。原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の世界に近いといえばそうなのだけれども。

 

それでは「凡作?駄作?失敗作?」といえばそうでもない。これは『ブレラン』に感動したドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の強烈な「返歌(かえしうた)」ではないのか?そう、自分が感じるのは『デンジャラス・デイズ』でリドニー・スコット監督がストリーボードに描いたが結局は使わなかったオープニングが『2049』で使われているからだ。

 

そして、それはSFのテーマというよりも人にとって究極のテーマでもあり、あの『フランケンシュタイン』から、テレビアニメ『Re:CREATORS』までに連なるテーマを描いているから。「愛されたい」と。

 

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Re:CREATORSレクリエイターズ)』より

 

何故なら、愛されていないことは孤独に苛まれることであり、愛される。ということは自分がこの世に確かに存在した証明でもあるのだ        

 

 

今回はそれを踏まえて自分の考えを書いてみたいと思います。

 

 

こちらもお願いします。

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ここからはネタバレになります。観ていない方にはおススメできません。

 

……子供を生むのはどんな気持ちのもの?そういえば、生まれてくるのはどんな気持ちのものなの?わたしたちは生まれもしない。成長もしない。病気や老衰で死ぬ代わりに、アリのように体をすり減らしていくだけ、またアリが出たわね。それがわたしたちなのよ。

   フィリップ・K・ディック 著 浅倉久志 訳『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』より

 

冒頭でKに殺されるレプリカントモートンはいう「お前は奇跡を見たことがないんだ」と。

 

しかし、奇跡とは神、つまり創造者が信仰者に対しておこすものだ。そして彼らの創造主はウォレスだ。ところが彼は無慈悲な神だ。レプリカントを創るのは少数しかいないであろう人間のためであり、その文明を維持、拡大させるために創り、「量が足りない」理由でレプリカントの自動繁殖に手をつける。

 

ウォレスがデッカードにこだわるのは彼がレプリカントだと確信して文字どおり再現したレイチェルとセックスをさせることで妊娠、つまり自動繁殖の手がかりを知ることだ。いわゆるリバースエンジニアリングだ。そこから見えるのはウォレスがレプリカントを「物」としてみていない証だ。また、愛を解析しようとする傲慢な人間でもある。

 

ウォレスがモートンのいうところの神であるはずはない。そうしたら神とは人を創造した神だということになる。宗教の神だ。レプリカント達はそれを崇めている。彼らも神に愛されたいのだ。

 

彼ら(解放運動)がデッカードの子供を希望として見るのはそうゆう意味でもある。デッカードの子供はウォレスの軛(くびき)から解き放たれた存在だからだ。もしかしたら「神に愛されるかも」しれないから。だから希望そのものだ。

 

そしてKも「誰かに愛されたい」レプリカントだ。ゆえにAIのジェイに対して愛を注ぐ。しかし、それは「架空の愛」でもある。それを思い知らされるのは自分にあった記憶が、自分のものではない、と知って特別な存在では無い現実で失意をした後に広告で現れた巨大なジェイの「特別とジョー」の台詞で示される。「彼女もまた「物」」だと。

 

しかし、それでもなお彼女に励まされた気がしたKはデッカードを救いにゆく。それはこの映画でいちばん美しいシーンでもある。何故なら、愛は矛盾だらけで理解不能だから。愛が解析などできるはずがない。

 

自意識をもったがゆえに「愛を得たい」レプリカント。これが『2049』のテーマなのだが、よく考えてみると「それって人と同じだ」

 

そう、ロイ・バッティの方向を進めたらKに行き着くのは当然。なのだ。

 

ブレラン』では視点をデッカードとロイの二人で描いていた。そのために疑似的な対話構造にもなっていて、それが哲学的な広がりを感じたのに対して『2049』ではKのみに視点を絞って、その内面を描いているので哲学的な広がりはないものの、思索がより深くなっている。それが『2049』の大きな特徴にもなっている。そしてこれが3時間近くの上演時間にもなっている。ほぼ一人称視点で進む展開なのだから。似たような一人称視点で『セント・オブ・ウーマン』があるが、これと同じ構造だ。

 

ラストでKことジョーは「雪を見る」。それが本物の雪なのか、それともデッカードの子供であるメモリーデザイナーのアナ博士が作った記憶がフラッシュバックしたのか……。どちらでもいいじゃないか! 大切なのはKは高精度な「物」ではない。というところだ。これはKといわれた「物」がジョーという生命になって優しさと愛に満たされて幕を閉じるドラマなのだ。

 

そして、無菌室で閉じ込めれれているにもかかわらず。アナ博士は「愛に満たされている」者だ。ということ。子供の玩具は無垢を意味するから。そう、あの木馬だ。

 

アナ博士の「愛」がレプリカントジョー(K)「愛」に連動する。歪んでいる。歪んでいるのだが、しかし、よく考えると、これは神と人との理想の関係でもある。これがニクイ!

 

ディックのアイディアでもある模造記憶をこんな素敵なドラマにするなんて!

 

 

ブレードランナー 2094』は傑作では無い。だが、惚れる映画だ。自分の中で独り占めにしたくなる映画だ。

 

それが、このシリーズに対する真っ当な評価かもしれない。

 

 

訂正:二回目を観て考え直す。言葉とは裏腹にウォレスが再現したレイチェルをデッカードに会わせたのは、性行為をさせるためだと思い込んでいたが、ウォレスの台詞を見ると、本当にデッカードの心を揺り動かすために彼女を再現していると思い直したので訂正します。ただ、「愛を解析する傲慢さ」の解釈は間違ってはいないと感じたので、この訂正だけで、書き直したりせずにそのままにします。

追記1:ジョイがただの「物」であると見たのは。彼女と同期したマリエッティが去り際に「中が無い」と言っているから。

追記2:ジョシ警部補が変なのはラヴに手を握りつぶされたのにも関わらず悲鳴を上げなかったところ。どうやら彼女は自分をレプリカントだと自覚していない?これは「デッカードレプリカント説」を意識したものか。それとも次の作品への引き?

 

 

 

 

Blade Runner 2049

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アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

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