ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
1945年7月。太平洋戦争での戦況が悪化する日本に対して、連合軍はポツダム宣言の受託を迫る。連日にわたって、降伏するか本土決戦に突き進むかを議論する閣議が開かれるが結論を一本化できずにいた。やがて広島、長崎に原爆が投下され、日本を取り巻く状況はさらに悪くなっていく。全国民一斉玉砕という案も取り沙汰される中、阿南惟幾陸軍大臣(役所広司)は決断に悩み、天皇陛下(本木雅弘)は国民を案じていた。そのころ、畑中健二少佐(松坂桃李)ら若手将校たちは終戦に反対するクーデターを画策していた。
シネマトゥデイより引用
今回はネタバレスレスレの解説モード
注釈:今回は岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』(1967)を岡本版として表記し、本作を原田版として表記します。
子供に見せたい映画。第三弾は本作『日本のいちばん長い日』 (2015)。
対象年齢は14歳から19歳まで。
でも、今回は対象年齢を30歳までに引き上げてもいいかとは思う。個人的な話になるが今の30代は下手をすると日本がアメリカ(連合国)と戦争してで敗北した歴史を知らない者が本当にいるからだ。ある議員の選挙対策事務所に出入りしていた時期に幾人かのスタッフと会話をした事があるが、その時に30歳くらいの青年が「最近まで日本とアメリカが戦争をしていたなんて知りませんでした」なんて聞かされた瞬間、「それはひょっとしてギャグで言っているのか⁉」の気分になっちゃたからだ。ジョークだとしても……なあ。
さて本題。そんな中で本作は終戦前後のエピソードを描いているのだが、公開前に本作の監督である原田眞人が岡本版に「陸軍大臣を演じた三船敏郎さんが自分の美学を追求しすぎた内容に好きになれない」と批判めいたコメントをしたせいでコアな映画ファンから非難された経緯もあって評価はあまり高くない。
そして本音を言えば自分も、映画として物凄く良いのか?と問われたとしたら「普通よりチョイチョイ上」くらいの感じなのだが、しかし原田版は岡本版よりも終戦を丁重に描かいているのは確かだ。
岡本版は終戦直前(1945年8月14日から15日)に起きた宮中事件を中心にして描いているのに対して原田版は終戦工作とその顛末を総轄として描いているので終戦を記憶している世代に向かって情念で表す岡本版よりも終戦どころか戦争さえも肌身に感じられない世代に向けて表している原田版の方が入口としては相応しい。
しかしそれでも、戦争を知らない世代にとって原田版はチョットだけ敷居が高い。その部分とは原田監督作品特有のクセを知って置くべき事と原田版で終戦直前に阿南惟幾や東條英機や畑中健二等若手将校がクーデターまでして守ろうとした国体とは何かが、軍事に明るくないとピンとこないところだ。
だからまずは最初に「国体とは何か?」について語る。
原田版(これは岡本版でも同じ)で提示された国体とは明治から誕生した日本帝國陸海軍であり、その頂点立っている天皇という形態またはシステムなのだ。
日本軍隊の最高指導者が天皇陛下であり、その忠誠も天皇陛下にある。
つまり、天皇=日本軍 と言っても良い。
これを日本軍の統帥権という。
軍隊とはその国々の政体の写し絵だ。
これは決してオーバーな言い回しではない。現在でも通用している。例えばアメリカ軍の最高指導者は合衆国大統領だが、その忠誠は自由と平等を表した国旗にあるのに対して、中国人民解放軍の最高指導者は国家主席にあり、忠誠は共産党にある。といった様に、その国々を象徴する。そしてあの時の日本はそうだった。
だが、それだと日本軍は天皇の意のままに動くと考えるだろうが、事はそう簡単ではない。確かに天皇は陸海軍の統帥権を持っているが、実際の軍政と軍令は運用はその時々の大臣等が行っていた。これを統帥補佐機関という。
ーー いちいち「軍」とか「軍令」とか「軍制」とかの断りを入れているのは統帥補佐とは憲法(明治憲法)からの正式な定義ではなくて、慣習からそうなっているからで、そのために軍は政治のコントロールを受けずに勝手な事ができた。
だから天皇が実際に行うのは他国との開戦を許可するだけ、それは聖断と呼ばれている。
つまり、天皇は忠誠の中心と陸海軍の最高指導者にも関わらず、実質にはなんの権限を持たないという複雑かつ奇妙な構造になっている。
こんな仕組みになったのは。1878年8月西南戦争の恩賞への不満を直接のきっかけに天皇を護衛する近衛砲兵大隊の兵士ら300人余が蜂起し、天皇に強訴するため、仮皇居になっていた赤坂離宮に迫った。日本陸軍史上ただ一つの兵士の反乱である竹橋事件があったからだ。誕生したばかりの明治政治は欧米列強に対抗するために富国強兵をしても、その力が自らに襲いかねないジレンマに陥り、それを回避するために考えられたのが、王政復古の大義で考えられ打ち立てられた 軍隊=天皇 の有り様である。
その複雑さが拗れに拗れて、それが勝つ見込みが薄い戦争へと向かわせ、原田版&岡本版で論議された国体なのだ。
つまり原田監督が岡本版を批判したポイントとは国体の定義が曖昧だったという事だ。
ただ弁護するのなら、それは岡本版公開当時、日本国民なら誰もが肌身で感じていた現実であり、それに手をつけるにはあまりにも早すぎたと思う。
それでは原田版で描かれた国体とは何か?
それは端的に二つ。
○ 畑中少佐や東條英機が主張した日本軍=天皇がワンセットになっている国体。
○ 天皇自らが望み阿南陸軍大臣がそのような落し所に持っていった日本軍と天皇を切り離した国体。
この二つだ。つまり軍の最高指導者と忠誠のワンセットから最高指導者を切り離して忠誠のみを残した形になる。
原田版はその駆け引きを描いている。軍事力という強大なパワーを捨て去るだけでなく明治から誕生した日本軍の根幹に関わるアイデンティティの解体をやっているのだ。
アイデンティティは歴史的な積み上げでもあり、それはそれ等の存在意義にも通じる。一言で言ってしまえば「プライド」だ。
だから敗北を認めるという事はプライドを捨てる事でもあり、それまでの歴史を捨てる事でもある。
岡本版が情念で描いたソレを原田版はより具体的に描いているのだ。だから、岡本版の情念が好きな者からすれば原田版はドライな感じがして好きになれないのは当然だろう。だけどもそれ故に原田版は子供に見せるにはうってつけなのだ。
さて、最後に 原田監督のクセについて書いて置きたい。とは言っても自分はかつて同監督の『関ヶ原』(2017) で書いた繰り返しにはなる。
原田監督のクセ。それは感情表現を段差で表す。というところだ。
例えば、天皇が好ましく感じていない(と、原田監督はそう解釈している)東條に対しては段差を作って会話をさせている。
そして、それに対するかのごとく好ましく感じている(と、原田監督はそう解釈している)阿南の時には段差から降りて阿南と同じ視点に立って会話をする。
これが原田監督のクセだ。おそらくは黒澤明作品からヒントを得てやっているのだろう。だから必ずしも終戦時の知識が無くても何となく雰囲気で察する事はできるが、これも子供向きとは言い難いのもまた確かだ。
だが、そのクセを頭に入れておけばラストシーンでの暗闇で独り座る天皇のイメージが何なのかが見えてくる。
それは最悪の局面は避けられて平和が戻ったものの、その結果として忠孝の臣下を失い独りになった者の瞬間でもあり、ひとつの文明が消滅した姿であるということだ。
今回はこんな感じで終了。
BDで鑑賞。