ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]
タクシー運転手のマックス(ジェイミー・フォックス)はロサンゼルスで12年間まじめにタクシー運転手という職業をこなしていた。ある日、客として乗せた女性検事アニー(ジェイダ・ピンケット=スミス)との会話をするうちにささやかだが心が通じ合い、アニーはマックスに自分の名刺を渡して車を降りる。
シネマトゥデイより引用
今回はネタバレスレスレの懐かし解説モード
ママ、マンマンママ、マンマン、ママ、マンマン、マンマンマンマンマンマンマンマンマンマンマンマン、ママ、マンマンマンマンマンマンマンマンマンマンマン……
CATVでコレが放送されていたから、最初は流し見な態勢だったけども、最後はガッツリとしてしまった、言わずも知れた名作。
誰にも文句は言わせない。
マン監督アクションと言えば『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』(1981) から意識していたっぽい……
A: 暴力に独特な美学の雰囲気がある。
B: 銃撃を美しく撮る。
C: 夜を魅力的に撮る。
この三つを志向しているところがあって、本作はその完成形だと断言できる作品だからだ。
まずはA。これは映像としての美ではなく、その作品ごとのキャラについて回る「生き様」みたいなモノでだから美学。高倉健主演昭和残侠伝シリーズやジャン=ピエール・メルヴィルなどの作品群と同じ雰囲気をつねにまとっているところ。ただ、それはマン監督の資質と呼ぶべきものでTVM作品『メイド・イン・LA』(1989) からすでに現れていた。
次はB。マン監督は銃撃戦を美しく撮る。ここで大切なポイントはアクション&ノワール銃撃戦を魅力的に撮るのは当たり前。と言うのを頭に入れておいてほしい。
それでは、美しいと魅力的にとはどう違う?と問われたら、その違いを説明するのは難しい。とにかく他作品と見比べろ!としか言えなくなるのだが、超簡単に説明してしまえば……
画づくりの流れが美しい。
つまりアクションを撮るのでなく、銃撃そのもの流れを撮る。
自分の好きな画・カットをつくる監督は数多いが、それをそのまま繋げるとハッタリやケレン味が表れる事が多いし迫力も感じて自分としては楽しい。
のだが、マンは巧く繋げて画をコントロールすることで、観客の感情をもコントロールすることができる手腕をもっている。
まぁぶっちゃけ、前にも書いた動線の誘導・視線の誘導なのだが、これで観客が美しいと感じてくれるのなら無問題。
このあたりは『ヒート』(1995) でほぼ固まった。
あ、あくまでも多少ね。あんまり酷いとさすがに怒るから。因みに、些細なことでも文句をいうやつは映画ファンと呼ばれる人達なので、彼等のいうことを真に受けてはいけないよ。(老婆心)
話は戻って、マン監督も画づくりを巧く繋げて観客の感情をコントロールしているのは確か。
美しいとはそうゆう意味。
最後にC。夜を魅力的に撮る。これにも注釈が必要で、古今東西映像の作り手たちが魅力的な夜を撮っていなかったわけではない。しかし、やはりフィルムでは限界があったのも確か。
そしてハリウッド映画の夜が魅力的に見えるのはセット全体に暗幕で覆ったり、ミニチュアセットやスクリーンプロセスという特殊効果を使いながらそれらを撮ってウソの夜を作ることでソレをやっているから魅力的に映る。
あと、雨でもないに道路が塗れていたり。
してはいるが、やはりそれは暗闇と光のコントラストの魅力&美しさであって夜そのものでは無い。
マンはそこに濃淡のある夜を撮った。
それが本作における夜の美しさだ。
前に自ブログの『狩人の夜』で「モノクロを階調で表現した」と書いたが、ここではソレをカラーでやっているのだ。
もちろんフィルムカメラではコレはかなり難しい。だから本作ではCCD搭載のデジタルカメラでそれを行なっている。そしてCCDの解像度を利用して濃淡のある夜を撮るのに成功している。
そして、そのご褒美なのか、映画の神様がコヨーテを道路に歩かせるという偶然をプレゼントして、作品をさらに深くに魅せるのに貢献しているのだ。
『狩人の夜』の蛙と同じだ。
こうしてマン監督の最高傑作が誕生した。
そんな名作なのだが、ドラマは超シンプル。日常という緩慢な死に浸りきっていた主人公が殺し屋と出逢った事で生きる気力を取り戻す。それだけ。
だから、プロの殺し屋にしてはヘマ打ちっぱなしのトムクルにリアリティなどを求めてはいけない。『狩人の夜』(1955) と同じで本作も教訓を込めた童話なのだ。
人はいっぱい死ぬけど。
CATVで鑑賞。